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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
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<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>河田小龍　開国の必要性を説いた絵師</title>
<description>坂本龍馬に開国の必要性を説いた男、河田小龍。河田小龍は１８２４年、高知城下の土生玉助の長男として誕生しました。小龍の父は土生家の養子であったので小龍は、祖父・金衛門の養子となり河田姓を名乗るようになるのです。小龍は幼い頃から絵がとても上手で、１３歳の頃から南宋画の画家・島本蘭渓に弟子入りして修行を積み、この時期に、雅号(筆名)を「小龍」としたそうです。更に小龍は絵だけでなく学問に対しても熱心で、藩儒・岡本寧浦の下で儒学などを学んでいました。そんな河田小龍に目を付けていたのが、吉田東洋です。東洋は当時浦戸の船奉行であり、小龍の父親の上司という立場にあった。更に岡本寧浦とも交友関係であったため、小龍の絵の才能を見抜いていたようです。東洋はある日、「京都に行って絵の勉強をしてはどうか」と提案し、小龍は京都の狩野派９代目・狩野永岳に弟子入りしました。ここでも才能を認められた小龍は、京都二条城の襖絵修復に抜擢されるなど、大活躍をするのだ。京都で修行していた小龍は、長崎へと向かいます。当時の長崎は日本で唯一外国との門を開けている場所で時代の最先端の場所だったのです。河田小龍は長崎の地で蘭学などを学びながら異国情緒あふれる数々のものに触れ、また外国の目覚しい発展ぶりを知り、日本も開国し、早急に国際化しなければならないと痛感しました。 高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちに絵や学問を教えるのです。この墨雲洞は、次第に世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場となっていき、多くの志士がその門を叩きました。塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などもいたようです。そんな小龍に運命を変える出会いが待っていました。それはジョン万次郎との出会いです。吉田東洋からジョン万次郎の取り調べを行うようにという命を受けるのです。当時蘭学を学んでいた小龍であれば少しは英語が理解できると思ったのでしょう。小龍は万次郎と寝食を共にしながら、徐々に理解を深めていくのです。そして、万次郎から聞くアメリカの情報は小龍にとっては画期的な話ばかりで、このとき改めて開国への思いを強くしたのは間違いはないだろう。この時、万次郎から聞き取った内容をまとめたものが「漂巽紀略」となる。１８５３年（）浦賀にペリーが来航する。日本全土に激震を与えたこのペリーの来航は、当然ながら土佐の若者達の心をも刺激した。開国を求めるアメリカに対し、小龍は 「現時点で彼らと戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを説く。そんなときに坂本龍馬が小龍を尋ねてきたのだ。小龍は開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を龍馬に話すのです。この話に感化された龍馬は、その後しばらくして脱藩をすることになる。脱藩した龍馬を小龍はどんな気持ちで見ていたのだろうか。日本が変わらなければならないと分かっていても行動を起せなかった自分と、変えるために何が出来るのかで行動を起した龍馬。小龍には龍馬が羨ましく感じたのではないだろうか。その後、小龍は土佐藩士の薩摩派遣に同行し大砲鋳造の技術視察などを行ったり、自ら製塩事業や鉱山事業に手を出したりします。しかし、いずれも失敗。居を転々とし貧しい生活を強いられました。しかし晩年は、京都の琵琶湖疎水工事に立ち会い、記録図誌の制作を行ったほか、内国勧業博覧会などに自らの絵を出品するなど再び画家としての活動を行う。そして１８９８年　７５歳にて生涯を閉じました。龍馬に脱藩の決意をさせた河田小龍。自身の想いとは別に、行動を起せない自身にジレンマを感じていたのかもしれない。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Sat, 22 Nov 2008 22:17:01 +0900</pubDate>

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<title>京都霊山護国神社に眠る土佐藩士</title>
<description>京都霊山護国神社に眠る土佐藩の志士。長州藩に続いて土佐藩士もアップしておきます。ざっと有名所だけ載せておきますね。天誅組の志士　　　　　吉村寅太郎　　　　　　　　那須信吾　　　　　　　　　安岡嘉助海援隊士　　　池　蔵太土佐の藩士も多くが眠っています。もちろん坂本龍馬や中岡慎太郎もいることは言うまでもありませんよね。ホントに時間があれば一人づつ名前をみて行きたいのですが、いかんせんチビたちが付いているとそういうわけにもいきません。京都に来たのだからと言うミョ～な高揚感があり、時間が気になってしまいます。今度はまたゆっくりと行こう！その他に誰がいるか知ってる方は教えてくださいね。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Thu, 13 Nov 2008 15:56:12 +0900</pubDate>

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<title>土佐藩の志士達</title>
<description>土佐藩の志士達○　吉村寅太郎－－－土佐の四天王○　岡田以蔵－－－人斬りの人生○　土方久元－－－薩長同盟の尽力者○　田中光顕－－－陸援隊副隊長○　後藤象二郎－－－土佐の舵取り○　橋本鉄猪－－－我ら王臣○　池内蔵太－－－龍馬も後継者と認めた男○　谷干城－－－龍馬を崇高した義理堅い男○　板垣退助－－－倒幕への意思表示ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Mon, 06 Oct 2008 09:33:00 +0900</pubDate>

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<title>板垣退助　倒幕への意思表示</title>
<description>自由民権運動の板垣退助。板垣退助は１８３７年（天保８年）高知城下の土佐藩士・乾正成の長男として生まれた。乾家は２２０石取りの馬廻役であり、同じ土佐藩士後藤象二郎とは幼な馴染みであった。坂本龍馬等の郷士よりも恵まれた扱いを受けており、身分差別を受ける事無く生きていた。幼少期の乾は気性が荒く、学問より相撲を取ったり、荒事、勝負事を好み、母は養育に苦心したと言われています。１８５４年（安政元年）江戸勤番を務め、１８６０年（万延元年）８月吉田東洋からの指名で税務職である免奉行に就任。１８６１年（文久元年）にも江戸藩邸詰めとなり、留守内用役兼軍備用を命じられるなど、乾は会計や軍事の職に携わり次第に土佐藩の要職に就くようになっていく。１８６２年（文久２年）山内容堂が一橋慶喜らと共に公武合体へ活動を始めた頃に乾は容堂の側用人として江戸藩邸の総裁を務め、武市半平太の土佐勤王党員が容堂警護の為に五十人組を結成すると乾は対抗して上士だけの五十人組を結成した。山内容堂は、幕府に対しての恩恵があり、公武合体論者だった。乾は勤皇派であり、文久３年に上洛した際には中岡慎太郎と接触があったとの話がある程で、土佐勤王党と全く同じ方向性ではなかっただろうが、同じ尊皇思想を持っていたと思われる。 ８・１８の政変により攘夷論派の急先鋒、長州藩が失脚すると、山内容堂は手のひらを返したように土佐勤王党への弾圧を始める。土佐藩は後藤などが叔父の吉田東洋の敵とばかりに土佐勤王党を潰しにかかるのだ。しかしその頃には倒幕思想だった乾は比較的冷静であったと言われている。こうして土佐藩の藩論は再び公武合体論が中心となり、乾は１０月に仕置役、元治元年８月には大監察に就任するなど容堂の信任を得て藩政の中核となっていく。しかし、同じように復帰した後藤象二郎と意見が合わないようになってきており、１８６５年（慶応元年）乾は自ら辞職、その後自ら希望して江戸へ出て、漢籍を学ぶ他、騎馬術と蘭式の兵学を学ぶなど修行に励みます。そして諸外国問題で揺れる徳川幕府に対して不信感を抱き、これからの日本の行く末を案じるようになっていた。そんな頃に薩摩藩の援護を受け反幕運動を始めた関東の浪士団の一部が、幕府に追われ土佐藩邸に保護を求めて来ると、自らの考えで浪士団を受け入れ、一時期築地藩邸に水戸浪士中村勇吉を潜伏させ、時勢の切迫に気付くと彼らを薩摩三田藩邸に預けて入京します。１８６７年（慶応３年）このころより中岡慎太郎と接近をし始める。時勢を学び、時代は倒幕、新しい世の中を望む声が多いことに気づき、時代の最先端で活躍している同郷の中岡に会うことを決めたようだ。幾度も中岡と話すうちに乾は次第に武力倒幕の意思を固め始め、５月２１日中岡の仲介により薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らと会談して薩土倒幕の密約を結び、翌日２２日には山内容堂に時勢の切迫を訴えるなど意思を表し始める。６月には土佐へ帰国して軍事総裁に就任して銃隊中心の兵制改革を推し進めます。小笠原唯八と共に同志を増やし、中岡慎太郎も旧勤王党員に書簡にて乾の決意を知らせます中岡慎太郎の協力もあり森新太郎、樋口真吉、大石弥太郎ら過去に対立していた旧土佐勤王党員ら有志の支持を得て、倒幕へ向けて土佐藩の兵制の整備、訓練など準備を整えていくのです。 これには中岡や坂本龍馬ら薩長同盟を締結させた二人は、もう１藩有力な藩があれば、倒幕は動き始めると考えていたので利害関係が一致したのだろう。しかし土佐藩内では山内容堂が藩論を大政奉還に定めた事もあり乾は浮いた存在となっていく。容堂や後藤は一時乾を隔離しようとしたのか８月２１日、家老福岡宮内の嫡子栄之助と共にアメリカ合衆国視察へ向かわせようとしますが、乾の強い反発があり実現しませんでした。 そうこうしているうちに鳥羽伏見の戦いが開戦。乾も参戦していきます。東山道先鋒総督岩倉具視の参謀に命じられ、乾の率いるは土佐藩兵迅衝隊は８小隊約６００名の兵で構成され、幹部には片岡健吉と谷干城がいた。甲州街道を進軍し３月６日には近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を勝沼で撃破。この甲府で遠祖武田氏家臣板垣駿河守信形にちなみ、姓を『乾』から『板垣』と改姓し、板垣退助となるのです。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Tue, 23 Sep 2008 19:03:15 +0900</pubDate>

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<title>谷干城　龍馬を崇高した義理堅い男</title>
<description>龍馬を崇高した義理堅い男、谷干城。谷干城は１８３７年（天保８年）土佐藩士・谷万七まんしちの四男として生まれました。１８５９年（安政３年）のとき江戸勤学を命じられ、安井息軒の三計塾に入り学びました。そんな中１８６０年（万延元年）桜田門外の変起こると、藩論が攘夷と開国に分かれると、谷は迷うことなく攘夷を主張。江戸勤学から土佐へ帰る途中、薩長と連携して攘夷を画策する武市瑞山と会い感銘を受け、帰国後、藩の参政・吉田東洋に攘夷の実行を進言しました。このとき、武市瑞山と知り合った谷はその後も親交を深めていき、ますます尊王攘夷運動に傾倒していくのだ。谷は藩主　山内の上京の督促と薩長と共に攘夷を行うべきを進言。しかし翌年１８６３年（文久３年）８・１８の政変により京都から攘夷派が一掃され、攘夷の急先鋒であった長州藩も力を弱めたことで時勢は再び混沌とする。土佐でも攘夷派の弾圧が開始される。長州の赦免を求めた谷干城は、一時、職を免じられ、まもなく復職するのだが、１８６４年（元治元年）久礼浦の陣屋詰に左遷されてしまう。要するに危険分子と見なされていたのだろう。谷が戻ってくるのは１年後のこと。土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となる。１８６６年（慶応２年）には藩命により長崎へ視察に赴く、ここで谷は大きな出会いをする。それは坂本龍馬だった。長崎にて龍馬と合い、話をするにいたり、谷は攘夷の不可なのを悟り、次第に倒幕へ傾いていったといわれています。時代の最も先を行く男、龍馬の時代観や世界観は谷にとっても大きな転機だったのでしょう。ここで坂本龍馬や後藤象二郎と交わって谷は新たな行動を開始する。１８６７年（慶応３年）京都に戻った谷は板垣退助とともに西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕の密約を交わす。そして薩土同盟を結んで討幕を目指すことになる。その頃になると谷は頻繁に龍馬、中岡慎太郎と交流し、意見を交わしている。大政奉還をさせ、いよいよ徳川幕府の解体を目の前にした谷に突然の知らせが入る。近江屋にて坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃をされたというのだ。谷はこの時真っ先に駆けつけ、まだ息のある中岡慎太郎のを陸援隊宿舎に運んでいる。谷干城は同じ土佐藩の出身者で、ズバ抜けた世界観をもった坂本龍馬を厚く尊敬し、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて暗殺犯を追ったという。谷は犯人は新選組と決めつけていたという。流山で新撰組局長であった近藤勇を斬首獄門という惨刑に処したのも谷であり、谷にとっては龍馬の敵討ちであったのだろう。１９００年、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったときは、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したという。１８６８年（慶応４年）戊辰戦争では政府軍の軍鑑として参戦し、北関東・会津を転戦し功績を上げました。１８７０年廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕、１８７２年（明治５年）陸軍少将になり、翌年から暫くの間熊本鎮台司令官となります。神風連の変後、再び熊本鎮台司令官となり、西南戦争の時は籠城策を取り５２日間にわたる薩軍の猛攻に堪え勇名を馳せます。この人事は、祖先に山崎闇斎門下の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば西郷軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。その功績により中将に昇進。陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任しました。１８８５年（明治１８年）伊藤内閣の初代農商務相に就任しますが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し、条約改正問題で辞任しました。後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開しました。薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていました。１９１１年（明治４４年）に死去しました。谷干城　享年７５歳。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　土佐の大満足！◆本まぐろ赤身400gとカツオのたたき280gＰｒｉｃｅ4,800 円土佐の高級水晶文旦3kg／5～6玉入（ご予約品）Ｐｒｉｃｅ7,800 円最高級【A5】土佐の特選ロース500g　Ｐｒｉｃｅ8,379 円坂本龍馬　勝海舟</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Tue, 02 Sep 2008 09:40:00 +0900</pubDate>

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<title>池内蔵太　龍馬も後継者と認めた男</title>
<description>坂本龍馬が将来を嘱望した男、池内蔵太。池内蔵太は土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の池才右衛門の子として生まれた。１８４４年（弘化元年）７月１５日、父親の病死により御奉公役代勤を命じられ扶持切米７石で家督を相続する。１８５７年（安政４年）神田村で私塾を開いた岩崎弥太郎に師事して学問修得に励み、近藤長次郎らが同門だったようだ。その後１８６１年（万延元年）江戸に出て安井息軒に師事し、様々な藩の志士と交流した。内蔵太は江戸で交流を広めながら、１８６１年（文久元年）に武市半平太が江戸へ入った時にはのち勤王党幹部となる大石弥太郎、河野万寿弥らと共に志士らを紹介して土佐勤王党の結成に貢献していくのです。この江戸での生活が後の内蔵太の志を導いたのでしょうか。８月に土佐勤王党を結成した武市は９月に島村衛吉らと土佐へ帰国します。内蔵太は大石弥太郎や小笠原保馬らと江戸に残り、そのまま活動を続けていくのですその間にも多くの攘夷志士と交流を重ね、時勢の流れとともに、内蔵太も暗雲の中に突っ込んでいくことになる。１２月には土佐へ帰国をする。 しかし、なぜか勤王党結成に関わっている内蔵太の名前は加盟者名簿には載っていなく、その理由は分からない。１８６３年（文久３年）山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられることとなり、再び江戸に赴く。しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太はこれを契機に土佐藩から脱藩して長州藩に逃げ込み、長州の尊皇攘夷運動に参加することにしたのである。そして長州軍に入った内蔵太は遊撃隊参謀となり、５月にはアメリカ船砲撃を指揮した。その後、同郷の吉村寅太郎の率いる天誅組の反乱に参加。しかしあえなくして天誅組が壊滅すると京都に身を隠すことになる。時代は攘夷に傾倒していたが、８・１８の政変以後、立場を弱くしていた長州藩は遂に１８６４年（元治元年）軍を率いて禁門の変を起こす。池内蔵太は長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。結果は長州軍の敗北で終わり、内蔵太も京から脱出することになる。禁門の変により身の置き所を失った池内蔵太は往くあてを探す。長州藩は俗論派が政権を握り、内蔵太が頼りとする正義派は桂小五郎が行方知れず、久坂玄瑞は死去、高杉晋作も逃亡するなど危機的状況だった。そんな時、内蔵太が耳にしたのは坂本龍馬が薩摩藩の庇護を受けながら亀山社中を結成したという話しだった。すると、内蔵太はそれに入社して龍馬と共に海軍創設に尽力することになる。しかし運命は皮肉なものだった。１８６６年、池内蔵太は長崎から薩摩藩へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中で台風に遭遇してしまう。逃げれば逃げれたであろうが、内蔵太は自身をワイルウェフ号のマストに縄で縛りつけ、ワイルウェフ号と共に運命を共にすることを選ぶのである。あまりに若すぎる死であり、龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている。池内蔵太　享年２６歳。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　種子島紫の焼きいも3袋　Ｐｒｉｃｅ3,129 円本場鹿児島の味を産地直送　さつま揚げ　Ｐｒｉｃｅ8,001 円しゃぶしゃぶ用かごしま産黒豚肩ロース肉　1kg　Ｐｒｉｃｅ6,300 円明石屋軽羹饅頭16個　Ｐｒｉｃｅ2,625 円.フグの名門ふく太郎本部より直送！涼風ふくしゃぶ牡丹盛りセットＰｒｉｃｅ5,250 円良漁場で育った北浦産 アワビ・サザエのセットA　Ｐｒｉｃｅ8,400 円</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2008 13:59:29 +0900</pubDate>

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<title>橋本鉄猪　我らは王臣</title>
<description>岩倉具視を中岡に紹介した男　橋本鉄猪。橋本鉄猪は１８３５年（天保６年）高岡郡佐川郷の深尾家家臣橋本喜問太の長男として生まれる。名を有蔵。のち変名で大橋慎三と名乗る。１８６１年（文久元年）武市瑞山により土佐勤王党が結成されると鉄猪は１３９番目に加盟しています。加盟に関しての時期は詳しくは分からないが、高知城下から島村寿之助が加盟連名書を佐川へ持ち込んだ時に同郷の井原応輔らと共に加盟したのではないかと思われる。鉄猪は勤王党に加盟した頃に一度脱藩を企てましたが、武市瑞山に説得されて脱藩を中止している。１８６２年（文久２年）の姉小路公知暗殺事件の時には上洛して刺客の探索に尽力した。１８６３年（文久３年）８．１８の政変が起こると時勢は尊攘派排除の動きが強くなり、土佐においても土佐勤王党への弾圧が開始されると佐川郷の勤王党員は家老深尾鼎により親類預けなどの謹慎処分を受け、鉄猪も勤事控自宅謹慎となっています。その後、１８６４年（元治元年）禁門の変が起こると、鉄猪は８月１４日浜田辰弥、那須盛馬、井原応輔、池大六と共に脱藩したのです。鉄猪らは長州三田尻の招賢閣に入る。しかしこの頃の長州藩は藩論確立や幕府の長州征伐の情報も入っており混乱していました。禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、寺島忠三郎など主だった者は討死にしており、桂小五郎も行方知れずになっていた。そこで橋本鉄猪らは大坂に出ることにするのです。目的は集結する幕府軍を混乱させる為に大坂城を焼き討ちする計画に加わる為でした。しかしこの計画は新撰組により感づかれ、１８６５年（元治２年）鉄猪らは新撰組の急襲を受け、大和国十津川郷に逃れ、この時に名前を大橋慎三と改名しています。その後、橋本鉄猪は京へ戻ります。鉄猪は１８６６年（慶応２年）どんな経緯かは分かりませんが、入京して岩倉具視と面会しています。このときに岩倉の見識の高さに驚き、心酔した鉄猪は中岡慎太郎を岩倉に紹介します。これが王政復古の大号令に繋がっていくのです。中岡は坂本龍馬を岩倉に紹介し、時代は次第にある方向性を見つけ出していきます。１８６７年（慶応３年）陸援隊が結成されると、橋本鉄猪は田中光顕と共に陸援隊の副長となります。そんな中あの悲劇が起こります。近江屋襲撃事件。坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたあとは陸援隊の隊務を処理しています。１２月８日には中岡が生前より長州藩士　伊藤俊輔らと計画していた鷲尾隆聚を擁して紀州高野山で挙兵する作戦を陸援隊として実行する。これには岩倉具視や中山忠能らも賛同しており、鉄猪は参謀として活躍します。そして大政奉還後の徳川家の辞官問題で鳥羽伏見の戦いがはじまり、鉄猪ら陸援隊士は京都の朝廷軍と相応して紀州や大坂の幕府軍を牽制するなどの活躍を見せます。維新後の鉄猪は政府に出仕して諸官を歴任しています。しかし、鉄猪は１８７２年（明治５年）６月２日に急病により病没しています。橋本鉄猪　享年３８歳でした。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Sat, 05 Jul 2008 07:10:18 +0900</pubDate>

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<title>後藤象二郎　土佐の舵取り</title>
<description>土佐藩の高知城下にて上士　後藤助右衛門の長男として生まれた後藤象二郎。将来共に土佐を背負い活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んでいる。土佐には独特の身分差別があり、上士と郷士の差は激しかった。後籐たち上士はその傲慢な態度から郷士達の目の仇にされていたのだ。無理もない話しである。１８５８年（安政５年）より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、１８６１年（文久元年）には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍するのだが、翌１８６２年（文久２年）に吉田東洋が土佐勤王党の刺客、那須信吾、大石団蔵らに暗殺されることにより、土佐藩は尊王攘夷へと流れていくことで、拠り所を失った後藤は失脚するのである。しかし、１８６３年（文久３年）８・１８の政変により尊王攘夷の急先鋒の長州藩が失脚すると、時代は再び公武合体へと傾く。安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行うようになる。後藤もこれにより役職を得て、また前藩主山内容堂の信頼を得たのもこの頃だと思われる。この年に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。元治元年（1864年）に、大監察に昇進した。後藤達は叔父・吉田東洋の仇とばかりに土佐勤王党を責める。武市は投獄され、拷問こそ受けなかったが他の志士達が拷問を受けて遂に自白し、武市は切腹となる。この武市の死により、土佐勤王党は事実上消滅した。土佐は完全に公武合体に統一された。その後後藤象二郎は参政として藩の実権を握るようになります。後藤は殖産興業の機関として開成館を設立。自ら総裁として中浜万次郎（ジョン万次郎）とともに上海に買い付けに出向くなどしました。さらに長崎に開成館の出張所として土佐商会を建設し、岩崎弥太郎を責任者として置きます。この頃後藤は、土佐藩の文明的な遅れや財政難などの危機を感じていました。時代は薩摩、長州が同盟したことにより倒幕に大きく傾いており、幕府の存亡も危うくなっていたときです。公武合体など夢のような話になってきていたのです。１８６７年（慶応３年）後藤は公武合体論から意見を変え、長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行うことを決意します。後藤から見れば龍馬は、師であり時代の最先端を行くものでした。しかし叔父である吉田東洋の仇・武市の同胞、龍馬から見れば武市端山をはじめ多くの郷士達を死に追いやった張本人であったが、龍馬も後藤とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。徳川の勢力を温存したまま天皇を中心とした国家づくりを目指すと同時に、山内家にも恩義を感じていた後藤はさっそく山内容堂にこれを提案。容堂から将軍徳川慶喜に大政奉還させるよう進言します。そして見事１８６７年（慶応３年）大政奉還となる。後藤象二郎はその功績を認められ目覚しい昇進を見せます。しかし後藤の協力者であった坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かに暗殺。また、土佐藩の独走を許すはずのない薩長の勢力は、幕府側との戦いである戊辰戦争へと踏み切っていくのです。後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが明治維新への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！九州各地の蔵元より集めた本格焼酎を正価販売</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Fri, 06 Jun 2008 15:16:53 +0900</pubDate>

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<title>田中光顕　陸援隊副隊長</title>
<description>坂本龍馬、中岡慎太郎のサポート役で活躍した田中光顕。田中光顕は１８４３年（天保１４年）土佐藩の深尾鼎家臣　浜田金治充美の長男に生まれます。最初は浜田辰弥、脱藩時に田中顕助と改名している。顕助の父　浜田金治は父親が死ぬと弟の那須信吾を養育していたため、那須信吾はこの兄の恩に報いるために、兄の子である顕助をことのほか可愛がったようである。顕助は成長すると城下に出て、武市道場に入門して武市半平太に師事します。武市道場には叔父の那須信吾をはじめ、土佐各地より多くの子弟が集まっていた。土佐の多くの志士達がそうであったように、顕助にとっても多大な影響を受けた場所であった。 そして顕助は武道だけではなく、河田小龍の墨雲洞へ入門していました。この墨雲洞には近藤長次郎や土方久元、清岡道之助ら多くの逸材が通っており、顕助は城下へ出てよい環境で学べたといえます１８６２年（文久２年）顕助は土佐勤王党に参加します。このとき、時代は当に尊皇攘夷であり、土佐も土佐勤王党の那須信吾たちが、参政吉田東洋を暗殺したあとであった。顕助は武市の下でこの時代の波に乗り志士としての活躍の場を求めていく。しかし１８６３年（文久３年）京都にて８・１８の政変が起こり、全国的に攘夷派が急速に力を弱めると、土佐藩の山内容堂も９月２１日武市半平太を逮捕して土佐勤王党への弾圧を始めた。このまま土佐に残留しても本望を遂げる事は難しいと判断した顕助は脱藩を決意する。そして１８６４年（元治元年）８月１４日　顕助は井原応輔、片岡利和、橋本鉄猪、池大六らと共に脱藩、仲間が多くいる長州藩に向けて落ちていく。長州に入った顕助だったが、この時長州藩は禁門の変の敗北により、幕府軍の長州征伐を目の前にしていた。顕助たちは大坂に集まる幕府軍を混乱させるために、大坂城を焼き討ちするという計画が立ち上がると大坂に潜伏します。しかこの計画は新撰組み察知され、襲撃されてしまう。顕助はいったん十津川へ逃げ込み、しばらく潜伏したのです。十津川に潜伏していた顕助は、同じく土佐脱藩者である中岡慎太郎より坂本龍馬と成し遂げようとする薩長同盟構想を聞かされたのです。これに賛同した顕助は、薩長同盟実現に向けて中岡慎太郎と共に奔走しはじめます。薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田了助を送り込むときには、池内蔵太らと共に長州へ同行しており、１８６６年（慶応２年）１月２１日、中岡や龍馬をはじめとする、顕助ら土佐脱藩者たちの必死の努力の元に薩長同盟は結ばれことになるのですこれにより倒幕へ勢いは加速していくことになります。 その後も中岡慎太郎や坂本龍馬と深い繋がりを持ち、１８６７年（慶応３年）陸援隊が結成されると副長として中岡を助けています。陸援隊は土佐藩白川屋敷の敷地内に本部が置かれていました。万事がこのまま順調に進むと思われていた矢先、とんでもないことが起こるのです。慶応３年１１月１５日、龍馬の下宿先であった近江屋で龍馬と中岡が襲撃されたとの報が入ります。この急報はすぐに陸援隊本部に伝えられ、顕助はすぐさま現場に駆けつけ、医師川村盈進を呼び手当てをさせていますしかし、龍馬は即死で、そして中岡は１７日に没しました。顕助は中岡を介抱しながら犯人の特徴などを聞き出し、それが今日残る暗殺犯人の証言となっているそうです。このことで土佐は求心力を失い、時代の波から少し遅れをとるようになります。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の合戦時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍します。維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、明治12年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年（明治20）、子爵を授けられて華族に列する（1907年には伯爵に陞爵）。明治31年、宮内大臣に就任。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。しかし明治42年、収賄疑惑で非難を浴びて同職の辞職、政界を引退した。政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Mon, 19 May 2008 08:56:03 +0900</pubDate>

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<title>土方久元　薩長同盟の尽力者</title>
<description>坂本龍馬、中岡慎太郎とともに薩長同盟に尽力した土方久元。土方は1833年（天保４年）土佐藩の上士の土方久用と母時子の長男として生まれる。上士として江戸へ遊学し、儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加するのだが、なぜ上士の土方が郷士達中心の土佐勤王党に参加するようになったのかはよく分からない。おそらく吉田東洋の改革路線に対して、それを不満に思う保守派層が存在したことである。土佐勤王党は過激な尊王攘夷の思想を掲げており、本来ならば正反対の立場にあるはずだったが、吉田東洋に対抗するという目的だったのかもしれない1863年（文久３年）以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流するようになる。やがて過激派公家三条実美の知己を得て、徴士学習院出仕を命ぜられたが、８・１８の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放されてしまう。土方は「七卿落ち」に従い、三条や沢宣嘉らとともに長州へ向かっている。幕府による第一次長州征伐の際には、三条らとともに九州へ渡海し、太宰府に逃れる。親長州の土佐浪士　中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。東奔西走の日々を送っている。元々が上士なので、ひょっとすると龍馬や中岡よりも桂や、西郷達とはスムーズに話が出来ていたのかもしれない。馬関において木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋するが、西郷のドタキャンにより実現せず、また振り出しに戻ってしまう。その後も龍馬。中岡とともに薩長同盟に向けて薩摩、長州、京を行ったり来たりを繰り返している。本当に休む暇もないくらいの日々だったであろう。こうした地道な努力の結果、１８６６年（慶応２年）１月２１日京都薩摩藩邸で龍馬を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する６か条の同盟が成立した。明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年（1868年）には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。明治18年（1885年）の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の農商務大臣として入閣。ついで宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。龍馬や中岡の影に隠れて目立ちはしなかったが、土方の担った役割は大きく、維新後の土方の役割を見ればそれは納得できることであろう。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Sat, 17 May 2008 11:26:45 +0900</pubDate>

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<title>岡田以蔵　人斬りの人生　</title>
<description>幕末の人斬り　岡田以蔵。以蔵は１８３８年土佐藩　郷士　岡田義平の長男として生まれる。嘉永元年、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。当時の土佐では身分による差別が激しく、郷士の身分をお金で買うことはなどは珍しいことではありませんでした。以蔵の身分は郷士ではなく足軽でした。以蔵の父の思惑で、以蔵は足軽の身分を、以蔵の弟が郷士の身分を継いだのです。以蔵は武市瑞山に師事し、小野派一刀流剣術を学ぶようになります。以蔵の人生を決定的なものとする武市との出会いはここから始まりました。もともと剣の腕はかなりのものだったようで、武市のところに来てからもその腕は益々磨きがかかっていきました。その後、武市に従い江戸に出てると以蔵もこれにともない江戸に出てる。江戸においては鏡心明智流の名門である桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。このころに坂本龍馬とも出会い懇意になっている。１８６０年（万延元年）、武市に従って中国、九州で武術修行にでると、また以蔵はこれに従い九州を武術修行する。以蔵は豊後岡藩に立ち寄り、以蔵は堀加持右衛門の道場で翌文久元年３月まで修行をおこない、その後江戸に入っています。そのころ１８６１年（文久元年）武市は土佐勤王党を結成する。時代の波に乗る尊攘派は過激な行動を各地で展開することになる。土佐藩においても、土佐勤王党の那須信吾らにより、参政吉田東洋暗殺をする。翌年、１８６２年（文久２年）土佐に戻ってきた以蔵は土佐勤王党に参加するのだ。この土佐勤王党加盟後、以蔵は暗殺の日々を繰り返すようになる。以蔵は本当に人斬りをしたかったのだろうか？以蔵の他にも人斬りの多くは、そこに自分の存在価値を見出したのだろう。また周りの人間も汚れ役を進んでやる者もいなかっただろうから、必然的に教養のない者などがそうなってしまっていたのではないだろうか。以蔵も人を斬る事によって評価される自分に酔いしれていたのかもしれない。以蔵は先ず最初に吉田東洋暗殺の下手人を捜していた下横目の井上佐市郎を暗殺。閏８月１９日　人斬りは人斬りを知る？のか薩摩の人斬り新兵衛こと田中新兵衛と出会い意気投合する。意気投合した二人は早速翌日２０日、本間精一郎を暗殺する。以蔵は２２日には宇郷玄蕃を暗殺、２９日に猿の文吉を暗殺と連日人を斬っていく。そして９月２３日再び田中新兵衛と共に、渡辺金三郎・大河原重蔵・森孫六・上田助之丞暗殺。明けて１８６３年（文久３年）岡田以蔵は坂本龍馬と共に大阪へ向かいます。大阪に着いた以蔵は池内大学を暗殺。そんな以蔵の姿を見て坂本龍馬何かを感じたのでしょうか。龍馬は以蔵を師・勝海舟に引き合わせ、身辺警護を依頼するのです。ある日勝が夜、市中を歩いていたら、丁度寺町通りで三人の壮士がいきなり前へあらわれて、ものもいわず切り付けた。驚いて後へ避けたところ、勝の側にいた岡田以蔵が、いそぎ長刀をひき抜いて一人の壮士を真っ二つに斬った。そして一喝すると、後の二人は勢いに辟易して何処ともなく逃げていった。勝自身もやっとの事で虎口を遁れ、以蔵の早業には感心したようだった。後日勝は以蔵に向って「君は人を殺すことをたのしんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告すると以蔵は「しかし、先生それでもあの時、私が居なかったら先生の首は既に飛んでしまっていたぜよ！」といったという。これにはさすがの勝も一言もなかったということだ。しかしそんな暗殺の日々も長くは続かなかった。８．１８の政変で長州藩をはじめ尊攘派が急速に勢いをなくすと、土佐勤王党も失速。武市は土佐に呼び戻されると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。しかし元治元年六月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい拷問を受けた。以蔵の捕縛を知った武市は彼の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたとさえ言われている。武市は性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配したとか、以蔵が軽輩故に他の同士より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、また、毒を送られた以蔵はそれを毒とは知らずに服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に解釈されている。以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年五月十一日に打ち首、晒し首となった。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。以蔵は死なずＰｒｉｃｅ798 円図解幕末剣豪伝Ｐｒｉｃｅ1,050 円逃げた以蔵Ｐｒｉｃｅ619 円人斬りの業Ｐｒｉｃｅ1,890 円図解幕末剣豪伝　Ｐｒｉｃｅ1,050 円幕末に人々から恐れられた“人斬り以蔵”こと岡田以蔵。Ｐｒｉｃｅ945 円人斬りペンダント/岡田以蔵　Ｐｒｉｃｅ8,000 円</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Fri, 09 May 2008 19:15:48 +0900</pubDate>

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<title>吉村虎太郎　土佐の四天王</title>
<description>土佐の四天王の一人　吉村虎太郎は土佐藩の庄屋、吉村太平の長男として生まれる。１２歳のときに父の跡を継いで北川村庄屋となる。後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚し、郡役人の間崎哲馬に学問を学び。また城下に出て武市半平太に剣術を学びことによって、尊攘思想に傾倒するようになっていった。１８５７年（安政４年）藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こす。この事件のために下分村に転任させられている。１８６１年（文久元年）武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟し、翌１８６２年には武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩　島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。これを聞いた吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかったため、やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行する。この時、藩境の誰何が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。吉村の脱藩後にしばらくして坂本龍馬、宮地宜蔵らが次々と脱藩している。吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士　本間精一郎と合流。上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であったため、浪士の動きを知った久光は驚き、鎮撫を命じる。だが、これを不満に思う薩摩藩士　有馬新七は過激派藩士と浪士だけで挙兵を決行することを計画するが、これが島津久光に漏れ、大久保一蔵らの説得工作も失敗、４月２３日には久光は伏見の寺田屋を同じ誠忠組に襲撃させて有馬ら過激尊攘派藩士の粛清をした。世に言う寺田屋事件である。翌日、吉村と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致された。３０日に身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還され、船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。土佐に戻った吉村は８ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に傾いてくると、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって吉村らも釈放されることとなった。１８６３年吉村虎太郎は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛されていた。吉村は山県小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。そして将軍徳川家茂が上洛し、朝廷から５月１０日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。そして５月１０日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃、この長州藩の攘夷決行には侍従中山忠光が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしているのだ。６月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退。吉村は松本奎堂、池内蔵太ら浪士とともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見して、上京を説いている。吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち京都へ戻っていく。８月１３日、三条実美ら攘夷派公卿が画策して大和行幸の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で久留米の志士真木和泉の献策によるものだった。吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画する。吉村虎太郎は、侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、吉村、池内ら同志３９人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。一行は大坂から海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表し、天誅組と称するようになるのだ。天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げる。五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。三条実美は天誅組のこの過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に８．１８の政変が起こり政局は一変。三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされたため、大和行幸の詔は偽勅とされることになってしまう。挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組は完全に孤立してしまった。幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して１０００人の兵をかき集めたのだ。天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、高取城を攻撃するものの、所詮は烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走。敗戦に憤った吉村は２４人の決死隊を編成して夜襲を図る。決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇し、吉村は敵に斬りかかるが下腹部に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退。９月に入ると天誅組は周辺諸藩の大軍の攻撃を受けながら奮戦するが各地で敗退が続き。遂には中山忠光を逆賊とする詔が下ると、十津川郷士も離反し、天誅組は脱出すべく山中を彷徨うが９月２４日に吉野村で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本、藤本らほとんどがここで戦死するか捕縛され、天誅組は壊滅した。傷が悪化して歩行困難となっていた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、２７日に津藩兵に発見され射殺されてしまう。吉村虎太郎　享年２７歳。辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。　　　　　　</description>
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<category>土佐藩</category>
<pubDate>Sat, 03 May 2008 19:59:30 +0900</pubDate>

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