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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
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<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>薩摩藩士一覧</title>
<description>薩摩藩士一覧○　有馬新七－－－『勇む心をあとに』○　海江田信義－－『過激な運動家』○　中村半次郎－－『人斬りの真実』○　田中新兵衛－－『謎の死・猿ヶ辻の変』○　五代友厚－－－『日本資本主義の開拓者』○　大久保利通－－『維新の三傑』　　　　　　　　　　　　　『精忠組の結成』　　　　　　　　　　　　　『寺田屋の悲劇』ランキングはこちらをクリック！城山観光ホテル宮之城温泉　手塚ｒｙｏｋａｎ指宿温泉　ホテル秀水園霧島温泉　さくらさくら温泉　　　　　　　　　　　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Sun, 16 Nov 2008 14:58:19 +0900</pubDate>

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<title>精忠組　寺田屋の悲劇</title>
<description>薩摩藩主　島津茂久から正式に認められた精忠組。その後精忠組は大久保利通を中心に活動していく。１８６０年（万延元年）には過激な水戸藩との連携をさらに強くし、井伊直弼襲撃計画が江戸詰めの面々を通じて具体化されていく。大久保はこれに対して島津久光に「出兵建言主意書」を提出。水戸藩、越前藩、尾張藩との連携を訴え、先君　島津斉彬の遺志を受け継ぐことが大切であるとしている。具体的には将軍家に嫁した天璋院篤姫の警護を名文に江戸と京都に１００人ずつ出兵すべきとした。大久保の主張は過激な脱藩者的なものではなく、あくまでも島津久光を口説き、薩摩藩全体で行うことを主張しており、これに対した島津久光の答えは「争乱の義」ならば出兵はやぶさかではないが、今はまだその義に非ずという自重論であった。しかし血気盛んな志士がそのようなことで納まるわけも無く、その後も大久保は５度にわたり建言している。大久保のイメージはどちらかと言うと冷静であり、穏健なイメージが強いが、実際はかなりの過激な発言を繰り返していることがおもしろい。亡き斉彬公の遺志を受け継ぐという、ある意味漠然とした使命により結束した精忠組だったが、時代の波に押し流されていく。１８６２年（文久２年）島津久光は１０００人の兵をもって上京することを決める。しかし、この情報を聞いた精忠組　有馬新七らは、これを利用し攘夷派の集結、挙兵を目論んだ。このウワサはたちまちに広がり、各地の攘夷派の志士たちが集まり始める。そして京都伏見の寺田屋に集結をした。その中に薩摩藩士が３１名おり、このウワサを聞いた島津久光は激怒。早速鎮撫隊を差し向けるのである。このときの鎮撫隊はほとんどが精忠組であり、寺田屋に集まった過激な攘夷志士達もほとんどが精忠組であった。まさに同士討ちである。有馬新七の「おいごと刺せ！」という言葉でも分かるように凄惨を極めた騒動であった。この寺田屋事件の同士討ちにより、精忠組はその姿を消すことになる。どこの藩も同じであるが、同じ志を持ちながらもその手法が異なったが故の結末だった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Wed, 23 Jul 2008 09:28:00 +0900</pubDate>

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<title>大久保利通　精忠組の結成</title>
<description>大久保利通を筆頭とする薩摩藩下級武士の盟中『精忠組』１８５８年（安政６年）大老井伊直弼はアメリカ領事ハリスとの間に勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結んでしまう。将軍問題も一橋慶喜を抑え、紀州の慶福に決定してしまう。一橋を推していた水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽らを隠居、謹慎へと追い込み、強硬な政治を行っていた。これを見た島津斉彬は危機感を感じ、勅命を奉じて幕政改革の乗り出そうとしていた。その手段として兵を率いて上京し京師を警護しようとしていた。近衛忠熈の手記には、近衛の奏上により孝明天皇から島津斉彬に京師警護の内勅が出ていたらしい。「近衛は、益々斉彬が勤王の精神に感激し、主上に奏上する所ありしが、深く斉彬の志を嘉納あらせ給ひ、国家有事の日には速やかに兵を率いて上京し、京師の警護すべし、との内勅を賜えり」とある。しかしこれ実行しようとする前に、斉彬は天保山で軍事練習中に急な病でこの世を去ってしまう。この内勅に基づく島津斉彬の精神を継ごうというのが精忠組の基本精神だった。その後時代は安政の大獄となる。同年９月精忠組諸氏は、水戸藩の過激派と連携して井伊直弼、間部詮勝を襲撃しようとする計画を立てる。主な面々は、樺山三円、有村雄介・次左衛門兄弟、海江田武次（このときは有村俊斉）、吉井幸輔そして大久保利通などである。彼らは脱藩をして計画を実行しようとしていた。この計画を察知した藩主島津茂久は父の久光に相談し、論書を与えることにした。その中の一文に「万一時変当来の節は、第一　順聖院様御深志を貫き、以って国家奉護、天朝に忠勤を抽んずべき心得に候」とある。これは斉彬の遺志を継承するという精忠組の理念、目的を藩主自らが認め、藩是とすることを誓約したものだった。藩主自らが自分たちの行動を承認してくれたということは大久保達にとってはかなりの感激であったろう。これは裏には島津久光の国家改革にともなう自らの地位を確固たるものにしようとする構想が在り、精忠組のそのエネルギーを取り込んで役立てようとしていたのである。なにはともあれこれにより精忠組は藩公認の結社となり、藩政に深くかかわって行くことになる。ちなみに、この時の島津茂久の諭書の宛所が「誠忠士面々江」となっていたため、後に誠忠組（精忠組）と言われるようになる。元々が彼ら自身は組織の名称を付けていないので「誠忠組」なのか「精忠組」なのかは正解は無いようである。大久保利通はその日の日記に「精忠士面々江」と記しているので現在のどっちなのか？という議論がある。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Fri, 18 Jul 2008 18:21:31 +0900</pubDate>

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<title>五代友厚　日本資本主義の開拓者</title>
<description>１８６２年（文久２年）から１８６７年（慶応３年）にかけて江戸幕府は上海に４回にわたり使節団を派遣している。これは外国貿易調査や各種探索が目的であった。この第一次の上海使節団の中に長州藩高杉晋作がいたことは誰しもが知っていることであろう。重要なのは高杉のほかに佐賀藩氏　中牟田倉之助、薩摩藩士　五代友厚がいたことである。高杉は五代から薩摩藩の軍事情勢、外国貿易に関する話を聞き大いに発奮、そして上海の地では中牟田から英語を学びながら現地の人の話を聞き、藩には無断ではあったが蒸気船購入の交渉をするに至っている。これは偏に同じ使節団の中にいた中牟田と五代の影響が強かったためであろう。では五代友厚とはどんな人だったのだろう。五代友厚は１８３６年（天保６年）薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷に生まれている。幼名は徳助。通称才助。幼少より海外に興味が強かったということらしい。１８５８年（安政４年）藩命として長崎海軍伝習所に学ぶ。この伝習所において航海・砲術・測量・数学などを学び、オランダ式海軍技術を会得する。１８６２年（文久２年）藩主の命令により海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許されている。そして欧州視察後の１８６３年（文久３年）薩英戦争が起こる。五代は寺島宗則とともに藩船の支配役だったが、天佑丸が拿捕され、捕虜となってしまう。このときの技術の違い、文化の違いに五代は、開国修好・富国強兵に傾倒していき、「五代才助上告書」を藩主に提出。この上告書にて開国貿易、海外留学生派遣の必要性を訴え、藩論を攘夷から開国へ転換させる役割を果たしている。１８６５年（元治２年）グラバーの仲介によりイギリスへの藩留学生１４名を引き連れて鹿児島を出航する。途中各地の情勢を見聞しつつロンドンに向かった。しかし五代の真の役割は留学ではなく、倒幕のために必要な武器の調達であった。五代はこの仕事をこなし、帰国の途につく。このときのヨーロッパ訪問が五代の中に更に強く、国力の増強には産業の発展と貿易にあることを認識するのだった。薩長同盟締結の際は坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎らとともに勤王運動を行い協力をしている。１８６８年（明治元年）に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮を誘致した。１８６９年（明治２年）の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。薩長藩閥政府との結びつきが強く、１８７５年（明治８年）に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。東の渋沢栄一と並び称される五代が５１才の若さで亡くなったこ とは、大阪にとってまことに不幸であった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Fri, 11 Jul 2008 15:07:23 +0900</pubDate>

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<title>田中新兵衛　謎の死・猿ヶ辻の変</title>
<description>幕末の４大人斬りの一人、田中新兵衛。出自は、鹿児島の伝承では薩摩前ノ浜の船頭とも薬種商ともされているが、史料上は島津家一門の島津織部家臣、つまり、陪臣身分であった。１８６２年（文久２年）に京に上り、海江田信義や藤井良節の元に身を寄せ、島田左近を暗殺する。その後、土佐勤王党の武市瑞山と出会い、義兄弟の契りを交わし、土佐藩の岡田以蔵などと共に、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを暗殺したと言われる。そもそも、陪臣の身分の新兵衛がなぜ天誅に手をかすようになったのか？それは当時、島津久光が公武合体策をとり、寺田屋事件で激派を弾圧して世間の不興を買っていたため、天誅の口火を切ることで、薩摩藩の名誉を回復しようとして、腕の立つ新兵衛を利用したという。その黒幕は在京薩摩藩の要人だった藤井良節や本田親雄ではないかといわれる。もしそうなら、新兵衛は使い捨ての駒だったのだろうか。土佐の武市瑞山と契りを交わしたのも、ひょっとしたら武市に利用されたのかもしれない。現に、武市は岡田以蔵を晩年疎んじており、軽蔑した趣のこともしたためており、血を浴びるのは下賎の者任せればいい、といったところがあったのかもしれない。１８６３年（文久３年）姉小路公知が暗殺される。猿ヶ辻の変である。現場に落ちていた一振りの刀。それは田中新兵衛の愛刀だったとされている。それがもとにより、新兵衛は捕縛された。また、新兵衛が負っていた傷も生き残りの証言と一致していた。ところが新兵衛は尋問の隙をついて自刃したため真相は闇の中となってしまう。刀は盗まれたものとの風説もあるが信憑性は薄く、死体を検分した事件生き残りも新兵衛に間違いないと証言した。近年の研究では実行犯説が有力になってきている。新兵衛の自害により薩摩藩への嫌疑が強まる。結果、禁裏御所乾門の警衛の任を解かれたうえ、禁裏内への立ち入りを禁止されるという政治的打撃を被るかたちとなる。新兵衛の遺骸は何故か罪人扱いされずに薩摩藩の菩提所である即宗院に葬られた。ここがちょっと疑問である。陪臣身分の新兵衛の罪で要職を解かれ、禁裏への出入りを禁止されたにもかかわらず、手厚く自国に葬ったのだ。薩摩藩としては自供せずに自害の道を選んだ新兵衛を、薩摩藩はぬれぎぬを着せられたのを恥辱としたか、武士の本分を守ったと判断したのだろうか。ともあれ新兵衛の死によって猿ヶ辻の変の真相は分からないままになってしまった田中新兵衛、人読んで人斬り新兵衛。死とともにすべてが伏せられてしまった。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Thu, 08 May 2008 12:34:00 +0900</pubDate>

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<title>中村半次郎　人斬りの真実</title>
<description>人斬り半次郎こと中村半次郎は１８３８年（天保９年）薩摩藩の中村与右衛門（桐野兼秋）の三男として生まれる。通称ははじめ半次郎、桐野姓に復姓してからは信作。初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称するようになる。半次郎が１０歳頃、父　与右衛門が罪により徳之島に流罪に処せられ、家禄５石を召し上げられたのちは兄　与左衛門を助けていたが、１８歳のときに兄が病没してからは小作や開墾畑を耕して一人で家計を支えた。石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限の郷中の士と親交を結ぶようになり、この郷中には生麦事件で英人を斬った奈良原幸五郎や寺田屋事件で死んだ弟子丸龍助など精忠派の士が多く、彼らの影響を強く受けた。１８６２年（文久２年）島津久光に随って上京し、他藩の志士たちと交際し、小松帯刀らから用いられるようになった。１８６４年（元治元年）中村半次郎は尊攘激派の中へ入って、長州藩邸にもよく出入りしていたようで、長州の事情はよくわかったようだ。西郷隆盛は大久保利通に、半次郎は長州へ行きたいと願っており、脱藩したことにして探索業務を任せることを提案する。しかし、西郷は半次郎が本当に脱藩してしまうかもしれないと思っている節もあり、まぁ帰ってきたら役にたつだろう。とある程度寛容な心で見ていたようだ。しかし、中村半次郎は長州へ赴いたが、藩境でとめられ入国できなかった。当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。それだけ長州は薩摩に対して恨みを持っていたことが分かる。半次郎はこのころから、長州よりの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいが、結局、長州は暴発し禁門の変となってしまう。禁門の変においては、長州贔屓の半次郎は一薩摩藩兵として、長州勢と戦わざるをえなかった。半次郎は兵庫入塾もねがっており、兵庫塾とは、つまり神戸海軍操練所である。この神戸海軍操練所は島津斉彬と勝海舟が話しをした際に、日本にも諸外国と対等に戦うには海軍塾が必要であるということから、勝が作ったものであった。このときも西郷は大久保に手紙を書き、半次郎が兵庫に行きたいといっているから行かせてはどうかと記している。しかし、実際には池田屋事件などがあり、神戸海軍操練所は閉鎖されてしまい半次郎は学ぶことは出来なかった。またやはりこの年の暮れ、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴いたといわれる。薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ねていく。もともと親長州だった半次郎だから当然と言えば当然で、１８６７年（慶応３年）には伊集院金次郎とともに馬関から長州藩士山県狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで護衛したりしている。同年秋、毎日のように数人で京都を見回りをしていたが、９月３日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺した。半次郎には「人斬り半次郎」という異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの１件しかない。土佐の坂本龍馬とも仲は良かったようで、坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走している。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。　　　　　　味のべっぴん！さつまあげの揚立屋 Price4,000 円.徳永屋本店さつま揚げ詰合せ Price5,250 円創業大正元年「有村屋」　さつまあげ Price5,000 円とっても甘い！種子島の「あんのう芋」！Price5,040 円種子島紫の焼きいも4袋 Price3,654 円紅さつま　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Wed, 07 May 2008 18:46:35 +0900</pubDate>

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<title>海江田信義　過激な運動家</title>
<description>過激な薩摩藩士　海江田信義。１８３２年（天保３年）薩摩藩士・有村兼善の次男として生まれる。１１歳の時に島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称するようになる。海江田は、最初は東郷実明に示現流を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流を学んでいる。一説には薬丸自顕流の道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているものもあるが、海江田は当時わずか１５歳であり、史実かどうかは疑わしいところがある。尊王の志高く江戸では小石川の水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事した。１８５８年（安政５年）井伊直弼を暗殺すべく上京するが、計画は失敗する。藩主島津斉彬の命により、一橋慶喜を将軍継嗣とすることに力を尽したが事敗れ、安政の大獄が起ると西郷隆盛とともに僧　月照と大坂から鹿児島に連れて逃れていく。西郷隆盛らと力を合わせ、また水戸藩士らと東西策応して義挙を計ったが実現するに至らず、帰国後誠忠組の中心として活動し，やがて誠忠組が藩内に勢力を得ると徒目付に登用されるようになる。１８６０（年安政７年）桜田門外の変が起き、弟の有村兼清（四男）が薩摩藩士として唯一参加し、みごと井伊の」首を取るのだが、深手を負い最後は自刃している。このとき際、弟の有村兼武（三男）は協力者として捕縛され、鹿児島にて母兄らの立ち会いの下、自刃している。文久元年（1861年）12月、日下部伊三治翼の長女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田信義と改名（海江田は日下部氏の旧姓）。その後、１８６２年（文久２年）島津久光に従って上洛し、寺田屋事件の時には同じ誠忠組の同志の鎮撫に赴いている。寺田屋事件後、藩主　島津久光とともに江戸に向かいその帰路にイギリス人・リチャードソンを斬りつける。生麦事件の張本人である。薩英戦争では、奈良原喜左衛門らと決死隊を募り、英艦奪取計画を計るなど行動はかなり過激であった。戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀として活躍していき、明治維新政府においても要職に就いたが、大村益次郎と対立したため、一時新政府から遠ざけられることになる。大村の死後は復帰して奈良県知事、貴族院議員、枢密顧問官などの要職を歴任。明治39年、７５歳で死去。なお、長女の鉄子は東郷平八郎に嫁いでいる。実は大村益次郎暗殺襲撃事件の首謀者であるという説もあり、また、加藤弘之が突然従来の持説であった天賦人権論から国家主義へと転向した背景には、海江田が加藤に刀を突きつけて天賦人権論の誤りを認めさせたからだと言う説もある。が、いずれも真相は不明である。また海江田はこの事件が原因で長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵に止まったとも言われている。お宝はこれだぁ！！私のひいおじいさんってすごい人だったぁ(&gt;_</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Thu, 01 May 2008 14:50:54 +0900</pubDate>

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<title>大久保利通　維新の三傑</title>
<description>維新の三傑　大久保利通は１８３０年（文政１３年）薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれる。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士で、幼少期に親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。１８４６年（弘化３年）から藩の記録所書役助として出仕するようになるが、１８５０年（嘉永３年）お由羅騒動にて連座で罷免され謹慎処分となっている。島津斉彬が藩主となると復職し、精忠組の領袖として活動していく。斉彬の死後失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれている。島津久光から信用はかなりのもので、１８６２年（文久元年）での間に久光から一蔵の名を賜り改名している。そして１８６５年（慶応元年）大久保利通と改名する。久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、１８６７年（慶応３年）に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。西郷は歴史の表舞台で活躍し、脚光を浴びる中、大久保は裏で政界を改革していく地味な役？だったためあまりめざましい活躍は少ないが、行った功績は大きい。大久保達の志は一つ、「外国に蔑まれない国を創る」という国家的使命感への熱気に溢れていた。「日本から外国人を追い出せ」と主張する攘夷論者であった彼らが、後に開国論者に変わっていったのは、軽薄な変節漢であったからではない。むしろ変わらぬ「一つの志」、「祖国愛」だったからであろう。大久保は信念の人であるがゆえ不動の人であり、現実を見極める力があるがゆえ柔軟の人でもあった。そんな大久保だったが維新後は大久保の考えについていけない士族たちの恨みの矛先になっていってしまう。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　　</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Wed, 30 Apr 2008 13:45:05 +0900</pubDate>

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<title>有馬新七　勇む心をあとに</title>
<description>寺田屋で壮絶な死を遂げた有馬新七。新七は薩摩藩の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となった。新七は元服した頃から真影流の剣術を学び、独学で山崎闇斎派の朱子学をも学んでいく。文武両道の俊傑とうたわれていた。１８４３年（天保１４年）江戸にでて山口管山に学び、翌年には師の代講を勤めるようにもなっていた。１８５６年（安政３年）師の進めもあり、京都にいき梅田雲浜と交流するようになる。翌年の１８５７年（安政４年）には薩摩藩邸学問所教授に就任し、尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺（桜田門外の変）を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となってしまった。その後も有馬新七は過激な尊皇攘夷活動を続け、１８６２年（文久２年）藩主　島津久光が兵を率いて上洛する。しかし、ちょうどその頃、久留米藩士・真木和泉らが薩摩藩に倒幕の働きかけをしていたため、これは実は倒幕の兵であると深読みし勘違いするものが出てきました。これが、有馬新七たちだった。この真木の元に久坂玄瑞、品川弥二郎、入江九一、山縣有朋、清河八郎など全国から３百近い者が京に集結していた。しかし島津久光はむしろ公武合体を推し進めていました。「久光公は上洛したが、一向に倒幕に乗り出す気配がない」と痺れを切らした有馬たちは、倒幕挙兵の先方たらんとし幕府寄りの公卿や京都所司代を襲おうと画策し、寺田屋へ集結。この不穏な動きを察知した久光は、その計画を思いとどまらせようと奈良原喜八郎らを寺田屋に向かわせます。寺田屋についた奈良原は思いとどまるよう久光の意を告げますが、有馬たちは聞き入れず斬り合いに発展。ここに凄惨な忠誠組同志同士の斬りあいが始まる。斬りあう最中、有馬の刀が折れ素手で組み合っていると刺客の一人　道島五郎兵衛を壁に押し付け、橋口吉之丞に　「おいごと刺せ！」　と叫び壮絶な死を遂げている。有馬新七享年３８歳。文武両道の雄だったが、時代が変わる一足前に才能を発揮することもなく逝ってしまった。ランキングはこちらをクリック！維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)(1993/10)平泉 澄、徳富 蘇峰 他商品詳細を見る</description>
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<category>薩摩藩</category>
<pubDate>Mon, 21 Apr 2008 14:07:54 +0900</pubDate>

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