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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
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<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>小原鉄心　新政府への転身</title>
<description>大垣藩士小原鉄心。幕末の大垣藩の藩論を幕府側から新政府側に変えた男です。小原鉄心は１８１７年（文化１４年）に生まれている。１８４２年（天保１３年）家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕える。氏正に重用されて家老・大垣城代にまで抜擢され、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なうことなる。１８５３年（嘉永６年）ペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行を務めていたのは大垣藩主　戸田氏正の親類の戸田氏栄だった。戸田氏栄は大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた１３０名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。外国艦隊を見た小原は、異国の文化と軍備に驚愕し、その後、大砲の製造、軍備の拡張に乗り出すことになる。氏正が隠居し、新藩主の戸田氏彬のもとでも重用され、１８６３年（文久３年）には戸田氏彬に従って上洛した。１８６４年（元治元年）禁門の変では薩摩藩とともに長州藩の軍勢と戦い、伏見まで追いつめるという武功を挙げている。このときに大砲を持ち込み敵を大いに粉砕したと伝えられている。氏彬の死後は戸田氏共に仕え、１８６８年（慶応４年）戊辰戦争が始まると、小原は参与に選ばれて新政府に仕えたが、鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、子の兵部は鳥羽街道の先駆を命ぜられ淀に向っていた。この時小原鉄心は兵部に大義名分を説き、先駆を辞退させようとしたが時すでに遅く、大垣藩は一時朝敵の汚名を受けることになる。父は政府軍、子は旧幕府軍という事態の中、小原は急いで大垣に帰り、天に二日なく地に二王なしの意をもって佐幕派と尊王派で分裂した藩論を尊王派で統一して新政府に恭順し、子の小原兵部を東山道先鋒として従軍させている。これにより一時受けた朝敵の汚名はそそがれることになる。戸田家は元々が譜代大名であった。藩主　戸田氏鉄は徳川家康の近習として仕えており、天草四郎の島原の乱おりには幕府軍総大将として戦地に赴くほどの家柄であったのだ。そんな譜代大名の大垣藩を幕府を捨て、新政府軍に転じさせるには、相当な困難があったと思われる。小原鉄心はいかにして藩論を幕府側から新政府側に変えたのか…。小原は薩摩・長州藩の志士たちや朝廷の人たちと交流がありました。時代を憂う志士と接していく中で「いまの幕府ではだめだ…」と考えるようになるのです。そんな中、時勢が大きく動き出します。１８６７年（慶応３年）１０月１４日将軍徳川慶喜が自ら大政奉還をし、やがて１２月９日には王政復古の大号令が発せられました。歴代譜代の大垣藩に思いがけない要請が着ます。新政府より大垣藩の家老小原鉄心に対して、「新政府に出仕すべく京都へ参上せられたい」との連絡があるのです。新政府は大垣藩の立地的条件と、大砲技術、その他の軍事技術に眼を着けていたのです。小原は時勢を鑑みて参与の職を拝命します。１月３日、幕府の権力回復をめざす会津藩や桑名藩などの旧幕府軍が、鳥羽・伏見において新政府軍と戦端を開く。小原鉄心は、旧幕軍支持に傾きがちな大垣藩の動向を危惧し、直ちに大垣に戻り、藩主の面前で諸藩士と激論をします。「今の日本を救うのは幕府ではない。天皇を中心とした新政府である」と熱心に思いをぶつけます。小原の賢明な説得により１月１０日、新政府軍支持の方針を決定した大垣藩。従来は幕府側の傾向が強かった大垣藩も、わずか数十日、もっといえば数日の間に「勤王」に方針を転身させたのです。こうして、大垣藩は小原鉄心のみならず、藩をあげて新政府軍に付くことになったのです。大垣藩内で内紛もなく、戦火にあうこともなく明治維新を迎えられたのは、小原の時勢を見る眼力があったお蔭でしょう。この大垣藩の動向を見て、幕府に付くか新政府に付くか迷っていた多くの藩が新政府に付いたのです。その後、新政府は旧幕府軍と戦い、勝利した後、明治新政府を樹立します。明治維新の樹立に際して、大垣藩は長州藩・薩摩藩・土佐藩に続いて多くの褒美を与えられています。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>大垣藩</category>
<pubDate>Sat, 16 Aug 2008 10:24:00 +0900</pubDate>

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<title>大垣藩　記事一覧</title>
<description>大垣藩－－－記事一覧●　『梁川星巌－－－日々旅にあり』●　『所郁太郎－－－攘夷の医師』●　『戸田氏栄－－－日米和親条約の使者』ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>大垣藩</category>
<pubDate>Fri, 15 Aug 2008 10:24:00 +0900</pubDate>

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<title>戸田氏栄　日米和親条約の使者</title>
<description>日米和親条約の使者、戸田氏栄は１７９９年（寛政１１年）美濃国揖斐郡深坂村西村に生まれる。名前の通り、大垣藩主戸田氏の一門で、大垣戸田家の分家深坂戸田家６代当主にあたる。１８４７年（弘化４年）２月から浦賀奉行に着任し、従五位下伊豆守に叙任した。当然ながら１８５３年（嘉永６年）ペリー来航の時、事態の重大性を見抜いて幕府に早船を送って注進しているのは戸田である。幕府は氏栄と井戸弘道を幕府代表として久里浜でペリーとの会談をもたせる。戸田・井戸らは鎖国している中のことではあるが、黒船を率いて強気に返答を求めるアメリカ側の姿勢を見て、やむなくフィルモア大統領の親書を受け取った。この時、氏栄は本家の大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた１３０名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。威風堂々としたペリー艦隊をみた小原鉄心は日本の軍備の遅れを痛感したといいます。その経験は大垣藩の軍事改革へと繋がっていきました。戸田にしてみれば何で俺が赴任しているときに来るんだよ～～ってな感じだったのかもしれない。ともかく浦賀奉行なのだから仕方ない。アメリカ側の記録では、日本側の代表者は戸田伊豆守と井戸石見守という者であるということ。戸田は５０才くらいの男で、とても大きい額に智慮を現している風であると記載している。さらに戸田氏栄の風貌として、端麗なる容貌には愛嬌を含んでいるとあり、戸田、井戸両人とも金銀の糸をもって作られた金襴仕立ての衣服を着ていたという。この折、当時、奉行所応接掛であった中島三郎助という者がおり、通詞の堀達之助らとともに退去する様に幕府の意向を伝えるべく船に乗船しようと近づくが、当地の責任者でないことをもって乗船できないとのことで、奉行の副官と偽って名乗り乗船したという。氏栄は幕府の全権であったが、臆して前面に出ることを嫌ったこともあって、以降中島がこの直接交渉のほとんどを担当したという様にいわれている。翌１８５４年（嘉永７年）のペリーの再来航時も幕府は戸田に日米交渉の全権を命じ、日米両国間において日米和親条約を結ばせている。結局このことが評価されたのか戸田氏栄は大坂町奉行に栄達するのだが、折りしも幕末。京・大坂には志士が満ち溢れ、幕府の威光も陰りが見え始めていたときでした。様々な心労が重なったせいか、１８５８年病没してしまう。戸田氏栄　享年６０歳であったといわれている。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　美濃大垣方言辞典　Ｐｒｉｃｅ2,300 円みそ入大垣せんべいの中でも一番堅い「四ッ折」の詰め合せみそ入大垣せんべい・四ッ折10枚入　Ｐｒｉｃｅ900 円奥の細道温泉紀行　Ｐｒｉｃｅ730 円</description>
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<category>大垣藩</category>
<pubDate>Fri, 16 May 2008 19:56:47 +0900</pubDate>

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<title>攘夷の医師　所郁太郎</title>
<description>瀕死の井上聞多を治療した名医　所郁太郎。美濃国赤坂の商人、矢橋亦一の四男として生まれ、大野郡の医者・所伊織の養子となった。初め、加納藩の青木松軒に学んでいたが、京に出て安藤桂洲に学ぶ。このころ、同じく美濃出身の柳川星巌と親交を結び、１８６０年（万延元年）には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ。ついで京の長州藩邸の側に開業したため、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。朱に交われば赤くなるじゃないだろうか・長州藩邸に出入りしているうちに、洗脳？され元々柳川星巌などと親しいこともあり、」桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作などの思想はすんなりと受け入れられていったようだ。このころから井上聞多とは仲が良くなっていたんではないだろうか。１８６３年（文久３年）には長州藩邸内の医院総督となり、８．１８の政変では長州に下向し遊撃隊医官の長となっている。１８６４年（元治元年）には長州藩の吉敷郡に開業し、そして９月には刺客に襲われて重傷を負い瀕死状態の井上聞多の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している。その時、郁太郎は、手術道具がないものの、畳針によって井上の一命を取り留めたのである。郁太郎が井上の家に着いた時は、すでに2人の医者がいたが、全く手をつけられず、結局郁太郎によって助けられた。このことから、かなりの手術技術を持っていたといえる。 翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で発病し吉敷村の陣営で没した。所郁太郎　享年２８歳であった。所郁太郎、生きていれば美濃を代表する人物になっていただろう。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>大垣藩</category>
<pubDate>Thu, 03 Apr 2008 17:45:34 +0900</pubDate>

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<title>日々旅にあり　梁川星巌</title>
<description>我が大垣藩の誇る漢詩人　梁川星巌。名は孟緯・字は公圖・美濃安八郡曽根村の人で、家は代々農業を生業とする豊かな豪農であった。７歳の時郷の花溪寺に入り大随和尚に学び、１２歳にして父母を亡し悲哀寝食を忘れるほどであった。梁川星巌１９歳の時に志を立て、家業の農事を弟の長興に譲って江戸に遊学し、古賀精里に入門する。ついで昌平黌を受験するが身分格差によって断念、そのために山本北山の「奚疑塾」に入学した。そこでは、経史・詩文などを研究し、特に詩作に関しては天才的能力を発揮したが、酒豪ともなり無一文になって一時帰郷することになる。その後また江戸の「奚疑塾」に戻り、大田錦城らとともに北山門下十哲に数えられ、このとき京都などにも遊歴、また故郷の曽根に帰った。江戸から戻った梁川星巌はこの曽根町で塾を開き、３２才の時、１８２０年稲津長好の娘の紅蘭と結婚します。しかし、星巌は結婚後すぐに旅に出てしまうのです。妻の紅蘭には「ちょっと近国を漫遊してくる。その間にこの詩を暗誦しておきなさい」と言い出て行ってしまいました。彼女は詩を完璧に覚えますが、星巖は一向に家に帰ってきません。周りの人たちが離婚を勧めますが、彼女はひたすら待ち続けます。ついに、星巖が帰ってきますが、帰ってきたのは1年後。ずいぶん長い「ちょっと」ですやっと戻って来た梁川星巌ですが、この人も一種の病気です。じっとしている事が出来ません。また旅に出ようとするのです。紅蘭は「私も一緒にお供します。留守番はこりごりです。決して弱音をはきませんからお連れ下さい。」と頼み、星巖はしぶしぶながら紅蘭のいうことを聞き、二人での旅が始まります。１８２２年、紅蘭と西遊の旅に出て広島・長崎などを訪れる。そしてまた故郷曽根に帰り、村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の詩人と往来した。１８２７年には京都で頼山陽・日野資愛らとも交流し、１８３４年には江戸に入って神田お玉が池に新居を構え「玉池吟社」と称した。なんと隣の家は佐久間象山で、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁にいつもはいっていたという。江戸にいる頃には藤田東湖や西郷隆盛なども交流をしている。このころにはすでに梁川星巌の名は有名で、鯖江藩主の間部詮勝や彦根藩家老の岡本黄石などが詩作の添削を依頼してくるほどであった。１８４６年には突然、京都に移住し、鴨川近くに「黄葉山房」を開くが、のちに川端丸太町に引っ越して「鴨沂小隠」を開いている。本当に落ち着きのない人である・・・・[emoji:i-230]ここでは佐久間象山や吉田松陰、宮部鼎蔵・梅田雲浜らが出入り時局を論じる。幕府からはここを「悪謀の問屋」と評されるようになっていた。その後、池内大学・春日潜庵・芝山昌道・小林良典らが来るようになると朝廷公卿の間にも名が知られるようになり、１８５８年、幕府が条約調印を行うとこれに憤慨、梅田雲浜らと公卿に攘夷を建言、水戸藩に密勅を降下させた。間部詮勝が京都に入ると詩２５首を賦して諌止せんとした。１８５９年（安政６年）しかし井伊直弼の安政の大獄がはじまると真っ先に狙われることとなる。だが逮捕の直前にコレラにかかって７０歳で死亡した。死後２日後に梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内が逮捕されて世の人は「星巌は死（詩）に上手」と評判した。梁川星巌人生を通じて落ち着かない性格だったのか、あちこち移っているのが星巌らしさだろう。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！奥飛騨の山並みに囲まれてひっそりと佇む隠れ家 ***** 奥飛騨温泉郷  寛ぎの舎 游 *****</description>
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<category>大垣藩</category>
<pubDate>Tue, 18 Mar 2008 15:18:05 +0900</pubDate>

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