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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
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<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>天狗党の西上</title>
<description>１８６４年１０月２５日、武田耕雲斎を首領とした水戸天狗党は京都を目指し最上を開始。下野の黒羽藩で攻撃を受けるが、その後は大きな戦闘もなく進んでいく。この天狗党は先頭に三つ葉葵の紋を染めた吹流しをかかげ、各小隊ごとに日本魂、奉勅、攘夷、報国、赤心などと書いた旗をあげて行進した。これを追う幕府追討軍の総括田沼意尊は後を追うものの、直接攻撃を仕掛けることはなく、街道沿いの諸藩に追討を命じていた。１１月１６日　上野の下仁田に着いた天狗党に高崎藩が攻撃を仕掛けてきた。しかし、各地で転戦してきた天狗党は強く、高崎藩は多くの犠牲者を出すことになる。そればかりか、大砲３門、小銃５０挺を奪われる結果となった。その後１１月１７日平賀、１８日望月、と中山道を進み、信濃に入り和田峠では高島・松本両藩に攻撃を受ける。天狗党はかなりの死傷者を出すがかろうじて撃退した。この和田峠の戦い以後、沿道の諸藩は直接攻撃を避けるようになる。それだけでなく、尊攘主義に賛同する藩にいたっては、資金援助をする藩もでてきた。天狗党は順調に西上していく。１１月２７日には美濃の中津川に入り目指す京は目前となってきた。そんな天狗党にとんでもない知らせが入る。取りすがるつもりの一橋慶喜が京都にて朝廷に天狗党討伐を願い出ていたのである。天狗党一行は一橋慶喜との交戦を避け、美濃から近江に入るのをやめ、越前に向かうことになる。気節は冬である。厳しい行軍になることは間違いなかった。天狗党は中津川から鵜沼、揖斐に入りここから蠅帽子峠を越え越前へ向かう。この蠅帽子峠は地元民でも真冬の峠越えは敬遠する難所であった。天狗党は寒さと飢えに苦しみながらも１２月６日、木本に到着する。越前に着いた天狗党だったが、加賀藩が迎え撃つ態勢を整えており、武田耕雲斎は金沢藩を通じて一橋慶喜に嘆願書を提出する。しかし慶喜は嘆願書の受け取りを拒否し、諸藩に攻撃命令を出す。窮地に追い込まれた天狗党は降伏を決意。１２月２０日加賀藩に身を預けた。加賀藩は天狗党諸士を丁寧に扱い、敦賀に移送した。一橋慶喜は敦賀に来る事もなく、事後の処理を幕府追討軍総括田沼意尊に預け京都に戻ってしまった。田沼は天狗党諸士を敦賀の海岸沿いにある鰊蔵に詰め込んだ。この鰊蔵、もともとが字の如く、鰊を詰め込む蔵だ。人が寝起きできるようなものではない。ましてや時期は真冬である。天狗党は罪人以下の扱いを受けていた。田沼はそれだけでなく大量処刑を始める。２月４日武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎ら幹部２４人を処刑。そして２月１５日から２３日日にかけて３２８人を処刑していく、処刑を免れた者１３７人は皆、遠島処分となった。水戸においても幹部の家族などは皆捕らえられ惨殺されていく。その後水戸藩は藩内抗争により多くの志士を失い、維新の際には特に大きな功績を残すこともなく埋もれていくことに成る。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Wed, 30 Jul 2008 15:59:56 +0900</pubDate>

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<title>藤田小四郎　水戸天狗党</title>
<description>先日話をした水戸の天狗党。決起させたのは藤田小四郎である。藤田小四郎はあの水戸藩の藤田東湖の四男である。小四郎には二人の兄がいたのだが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われている。東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。１８６３年（文久３年）藩主徳川慶篤の上洛に随従した際に、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流する。これにより更に尊皇攘夷の思想に拍車をかけ、水戸藩過激派の首領格として台頭していくことになる。そして翌１８６４年（元治元年）朝廷より攘夷の勅が出されながらも無策を続ける幕府に憤り、同志など６０人余りが集結して筑波山にて挙兵するに至る。決起した天狗党は亡き水戸藩主　徳川斉昭の位牌を神輿に入れ日光に向かった。日光は徳川の聖地。徳川家康が祀った場所である。天狗党は日光を拠点に攘夷活動をするつもりだったようだ。しかしこれは日光奉行に拒否をされ実現しない。しばらくは下野にて滞在するが、この間に豪商・豪農から資金を集めている。そして北関東各地の志士がこのウワサを聞き、天狗党が再び筑波山に戻る頃には７００名にもおよぶ人数になっていた。そのために武器、食料などをまかなうのにかなりの資金を必要となり、天狗党が取った手段は豪商・豪農への強要だった。これが天狗党の評判を悪くさせた。攘夷の志士から浮浪・強盗の集団と言われるようになってしまった。水戸藩は徳川斉昭在命中も改革派と保守派に分裂をしていました。そのため斉昭の死後はその対立は激しさを増していくのです。改革派も激派と鎮派とに分かれてしまう。保守派と鎮派は激派である天狗党の動きに危機感を感じ、水戸藩の実権を握った。幕府も水戸藩の内部抗争に収束を命じたため、藩主　徳川慶篤は部隊（大発勢）を水戸へ向かわせた。幕府の追討軍と戦った天狗党はその後水戸を目指す、また水戸に残っていた武田耕雲斎は鎮派を集結し江戸に向かう。しかし耕雲斎は途中で追討軍に阻まれ、そこに江戸から水戸に向かう大発勢と合流し水戸を目指すことになる。水戸城は保守派が占拠しており、大発勢・武田軍の入城を拒否。大発勢・武田軍はいったん那珂湊に向かう。そこへ天狗党も合流する。幕府と保守派は大発勢と天狗党に一斉攻撃を開始、これにより大発勢は降伏してしまうのだが、天狗党と武田軍は戦火を交えながら北へと逃げていく。そして大子に来た辺りで首領を武田耕雲斎に、副将として藤田小四郎、田丸稲之衛門とした。天狗党の今後の方針は京都　禁裏守衛総督一橋慶喜にすがることだった。こうして天狗党の京に向けた西上が開始される。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Fri, 25 Jul 2008 10:15:00 +0900</pubDate>

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<title>武田耕雲斎　敦賀にて散る</title>
<description>先日海水浴をしに大谷吉継の領地　敦賀の水晶浜に行って来た。原発があるせいか、海岸は人工的にも手が加えられとても綺麗。もう15年くらい海水浴はここに来ている。まぁそんなことはさておいて帰りに思い出した。武田耕雲斎のお墓に行ってから帰ろう。海水浴客多くいれども、耕雲斎のお墓に行く奴なんかいるはずもない。場所は近いのに道はガラガラ、いるのは僕だけだ。耕雲斎といえば水戸天狗党だ。耕雲斎の諫めも及ばず決起した藤田小四郎。最早時代の流れと総大将に担ぎ上げられた武田耕雲斎。天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた一橋慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていたのだ。そのため８００名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けるが、斬首された。徳川斉昭の死後、行き場を失っていた耕雲斎は天狗党の首領とされた時、既に死を覚悟していたようだ。最後の死に場所を求めたのかもしれない。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Thu, 24 Jul 2008 09:49:00 +0900</pubDate>

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<title>安島帯刀　水戸の両田の後を担う</title>
<description>水戸の両田の亡き後、一身に水戸藩を支えた男　安島帯刀。戸田三右衛門忠之の次男に生まれ、母方の叔父・安島彦之允信順の養子となった。三河譜代の名門の出自だが、佐竹氏旧臣の血筋である母方・安島氏の家督を継いでいる。初名は弥次郎と名乗り元服して諱を忠誨とする。安島氏を継いでからは諱を信立と改めた。１８２９年（文政１２年）水戸藩主継嗣問題が起こると兄・戸田忠太夫とともに徳川斉昭擁立に奔走する。１８３６年（天保７年）には家督を継ぎ、１８４０年（天保１１年）勘定奉行に昇進し、ついで小姓頭取となる。しかし、１８４４年（弘化元年）斉昭が罰せられると雪冤に奔走し役禄を召し上げられ謹慎となる。斉昭への譴責が緩むにつれて、１８５３年（嘉永６年）ペリーの来航にともない斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、１８５６年（安政３年）安島は再び登用されて御側用人となり、藩政改革や斉昭の幕政を補佐し功績を残すことになる。斉昭が幕府の命により海防参与になると、実兄・戸田忠太夫が幕府海防掛、安島帯刀が幕府海防参与秘書掛を命ぜられる。水戸藩の官僚として活躍し、藩士の教育行政にあたる学校奉行や日本初の軍艦である旭日丸を建造監督にあたり、幕府より恩賞を受けた。実兄・戸田忠太夫や藤田東湖が安政の大地震により亡くなったため、１８５８年（安政５年）斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられることになる。また、家老昇進にあたっては身分に相応しい名として、朝廷の正式な官職に次ぐ由緒のある百官名、帯刀を称する様になったのだ。１３代将軍徳川家定の死により、将軍継嗣を巡って井伊直弼や松平讃岐守といった譜代大名や家門の門閥層が徳川の嫡流に近い紀州藩の藩主徳川慶福を擁立して南紀派を形成していた。かたや徳川斉昭を中心に親藩にて家門筆頭たる福井藩の松平春嶽、雄藩の薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城などの幕末の四賢侯が英邁で聞こえる斉昭の７男一橋慶喜を奉じて一橋派を形成して対抗していた時であった。安島帯刀も当然ながら主君斉昭の実子である慶喜を将軍とすべく奔走していた。安島帯刀は一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中根雪江、橋本左内儒者の梅田雲浜、公家の家臣　飯泉喜内、その他薩摩藩士の西郷隆盛、土佐脱藩浪士坂本龍馬、五摂家筆頭の近衛家老女村岡と通じ、水戸徳川家の縁戚にあたる鷹司家や三条家にも支持を得んとするなど朝廷内工作にも動いた。安島自身も黒船来航など西欧列強の脅威がふりかかる国難に対処し得る将軍として慶喜に期待をしており、慶喜のことを「徳川の流れを清ましめん御仁」と評している。こうしたことから、安島帯刀は水戸藩内に留まらず、幕府の守旧派からも憎まれる存在となっていった。その様な折に朝廷が水戸藩に幕府への尊皇攘夷を促す様に命じた戌午の密勅に関与したとされ、幕府評定所より召還され軟禁されることとなる。水戸藩主徳川慶篤は御三家の家老が幕府に囚われるなど前代未聞ですぐに解放する様に要請したが、適わずに、幕府の尋問により、安島は無罪とされたものの、大老・井伊直弼より再審議を命じられ、さらに無罪とされると井伊自ら安島に切腹を命ずることとなった。この辺りに井伊の専横さが窺えるところである。『水戸藩史料』には「信立の審を受くる挙止慎重言句もせず罪を一身に受け義によりて屈せず幕府有司も皆其の器識徳量に感称し其の死を惜しまざるはなし」と伝えている。１８５９年（安政６年）８月２７日、安政の大獄により駒込にある九鬼家の三田藩藩邸において安島帯刀は切腹し、遺体は甥の水戸藩家老　戸田銀次郎宅に収容され、遺族に引き渡された。安島帯刀　享年４８歳。水戸藩は動乱にまた一つ大切な志を失ったのである。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！誰も知らなかった幕末維新の謎Ｐｒｉｃｅ900 円君よ、志を持って生きてみないかＰｒｉｃｅ1,575 円安政の大獄Ｐｒｉｃｅ756 円</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Tue, 03 Jun 2008 16:13:31 +0900</pubDate>

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<title>天狗党の首領　武田耕雲斎</title>
<description>天狗党の首領　武田耕雲斎。水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房の養嗣子となる。１８１７年（文化１４年）家督を継ぐと同時に武田氏に改姓する。もともと甲斐武田の下で守護代を世襲した跡部氏であったため、耕雲斎は武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称されている。耕雲斎も戸田や藤田と同様に９代藩主・徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから要職に就くようになる。しかし１８４４年（弘化元年）に斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、耕雲斎も連座で謹慎となった。１８４９年（嘉永２年）斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、１８５６年（安政３年）には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えていく。しかし１８６０年（万延元年）に斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極める。耕雲斎も藩政から遠ざけられるかたちとなるが、耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、１８６４年（慶応元年）には藤田東湖の息子・藤田小四郎が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、８００名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬り殺された。武田耕雲斎　享年６３歳。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。　　　　　　</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Sat, 10 May 2008 12:39:05 +0900</pubDate>

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<title>水戸の両田　戸田忠太夫</title>
<description>藤田東湖と共に、　「水戸の両田」と並び称せられた戸田忠太夫。戸田は水戸藩の戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。幼少のころの詳しい資料がないためその頃の状況は定かではない。１８１３年（文化１０年）戸田忠太夫は家督を継いで小普請組となる。１８２０年（文政３年）大番組頭、１８２８年（文成１１年）には目付となっていく。ちょうどその頃に、水戸藩に継嗣争いが起こるのだ。第８代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第１１代将軍・徳川家斉の第２０子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第９代藩主となる。このとき戸田は藤田東湖とともに斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第９代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。斉昭が水戸藩主となると藤田とともに斉昭を支え世に水戸の両田といわれ、尊王の志と学識を備えた優れた指導者として知られる様になっていく。１８３０年（天保元年）藩内争議のため、戸田は無願出府して免職され、留守居同心頭列となったものの、斉昭の意向により３月には江戸通事として復帰している。その後も数々の要職を重ねていき、水戸藩における天保の改革として領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において重要な役割を果たしていった。しかし、斉昭が１８４４年（弘化元年）に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚、戸田も同様に免職、蟄居謹慎を命ぜられることになる。斉昭への譴責が緩むにつれて戸田も復帰が適い、中寄合となって水戸表での遠慮が命じられた。１８５３年（嘉永６年）ペリーの来航にともない斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、戸田忠太夫も幕府海岸防禦御用掛、江戸詰となり執政に準ずる身分となり、海防掛として老中以下幕臣の岩瀬忠震らと異人来襲の危機につき協議に参画するなど活躍し、１１月には忠太夫の名を賜ることになる。ちょうどこのころに薩摩藩士・海江田信義が尊王思想を通じて知己となった藤田東湖の紹介で、江戸の水戸藩邸にいた戸田忠太夫を訊ねてきた。海江田はその後ちょくちょくと戸田を訪ねており、海江田が訪れると一日中、六畳あまりの小楼にて談義していたという。戸田はその楼が、この間でき上がたばかりだと紹介し、楼から見える風景を前にこんもりしているのは、後楽園の松林でここにいると山中にいる気分になるようだと語った。戸田は自分は若い時から笙を吹くのが好きだが、以前に藤田ともども禁錮を受けていた故に笙どころではなかったという。楼ができたので吹いてみたいと藤田に述べると、藤田は笙は雅楽だから鄙しいものではなく、吹くのは良いが、遊びは遊びであるという。ペリー来航で天下が乱れている時に笙を吹いているのでは、逸楽に耽っているなどという者もあるかもしれず、時機がまだ早いだろう。もう少し待ってはどうかと諭されたという。これを聞いた戸田は内心慙愧に絶えず、助言通り吹くことはしないが、心中そんな気を動かしたというだけで自分は藤田には及ばないと述べていたという１８５５年（安政２年）安政の大地震によって、その出来たばかりの小石川の水戸藩邸にある楼で卒去してしまう。結局、戸田忠太夫は笙を吹くこともなくこの世を去ってしまう形に成ってしまった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。　　　　　　</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Fri, 02 May 2008 12:35:08 +0900</pubDate>

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<title>水戸の両田　藤田東湖</title>
<description>徳川斉昭の腹心として幕末の水戸藩の尊皇志士に大きな影響を与えた男　藤田東湖。１８０６年（文化３年）藤田東湖は父の水戸学者藤田幽谷の下に生まれる。青年期に彰考館に勤め、１８２７年（文政１０年）に家督を相続。進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。１８２９年（文政１２年）水戸藩に継嗣問題が起こる。第８代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第１１代将軍・徳川家斉の第２０子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第９代藩主となる。このとき東湖は斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第９代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。斉昭の襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進、１８４０年（天保１１年）には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得て、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりる。しかし、斉昭が１８４４年（弘化元年）に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚し、禄を剥奪される。その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって１８４６年（弘化３年）に謹慎を解除されるとそれまでの責を問われ江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。１８４９年（嘉永２年）徳川斉昭が藩政関与が許されると、東湖の罪も許され水戸に戻ることが出来た。そして３年後の１８５３年（嘉永６年）ペリーが浦賀に来航し、時代が激震をすると、幕府は徳川斉昭が海防参与として幕政に参画させ、それに伴い藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。１８５４年（安政元年）には側用人に復帰している。徳川斉昭には側近・戸田忠太夫がおり、東湖と共に、　「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。各藩の志ある若者達は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けていったのです。また東湖は他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと言われるほどの力をもっていた。ペリーの来航以後彷徨う幕政の中、水戸学を学んだ藤田東湖の思想は「尊皇攘夷」であった。水戸学と水戸藩はこの思想の魁となったため、その行動も過激になっていく。１８５５年（安政２年）江戸を大激震が襲う。安政の大地震である。そのとき東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅いました。東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来ましたが、母が脱出できずに閉じ込められてしまいました。東湖は母を救出するために屋敷内に立ち戻るのです。その戻った東湖の頭上に大きな梁が落ちてきます。東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死してしまうのです。藤田東湖　享年５０歳。水戸藩にとってこれはとてつもない損失でした。東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。これを見ても、東湖の死は、その後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。　　　尊王攘夷の旗藤田東湖の生涯Price1,365 円水戸学と明治維新Price1,785 円幕末入門書Price1,890 円</description>
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<category>水戸藩</category>
<pubDate>Fri, 25 Apr 2008 17:41:43 +0900</pubDate>

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