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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>清河八郎　浪士隊から攘夷の志士へ</title>
<description>清河八郎は、松平春嶽に『急務三策』　（1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育）を上書する。京都の尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、浪士組が結成されることになる。京都に到着した夜、清河八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると告げるのだ。「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ！われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり！」と尊皇攘夷論を演説した。清河は幕府の浪士組ではなく、天皇直属の隊に変貌させようとしたのだ。幕府を離れ、直接朝廷の命令をもらおうというのである。これは明らかに幕府を倒すための軍隊である。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇らが残留し八郎と袂を分かつ、かれらは壬生浪士（壬生浪）となり、後に新選組へと発展してゆく。清河は学習院へ署名を提出、学習院はこれを受理し、浪士組あてに勅諚をもらったのだ。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事であった。このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻すことにする。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。３月２８日、清河率いるは浪士組が江戸に到着した。朝廷の勅諚を下されているのだから、清河は正々堂々と江戸に戻ってきていた。天皇の名のもとに攘夷が可能になったのだ。清河は攘夷決行を４月１５日と定めていたそうだ。攘夷の計画とは、横浜に火を放ち夷敵を斬り、海に石油をまいて黒船を焼き払い、その後、甲府の役所を落としてそこで尊皇攘夷の旗をかかげ、諸国に号令をかけ攘夷に志士達を蜂起させるという壮大な計画であった。しかし清河の無限の夢も叶う事無く終わる。１８６３年（文久３年）４月１３日。清河八郎は幕府の刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など６名によって麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。北辰一刀流の使い手の清河であったが、経略のもとに剣を抜く間を与えられずに斬られてしまった。清河八郎　享年３４歳。『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子（山岡鉄舟の妻）が保管し遺族に渡したという。清河八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>尊王論者</category>
<pubDate>Wed, 17 Sep 2008 15:59:43 +0900</pubDate>

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<title>清河八郎　攘夷のために</title>
<description>清河八郎は１８３０年（天保元年）出羽国庄内藩の郷士の斉藤豪寿の子として生まれた。本名は斉藤正明である。１８３７年（天保８年）清河７歳のとき、父・豪寿より孝教の素読を受けはじめ、１０歳になると、鶴岡の伊藤鴨蔵から学問、清水郡治に書を学ぶ。しかし、清河は横着で悪戯好きな子どもだったようで、塾を追われてしまう羽目になる。１８４３年（天保１４年）１４歳のときには、清川関所役人だった畑田安右衛門に師事し、論語・孟子・易経・詩経・文遷を学ぶ。１８４６年（弘化３年）酒田の伊藤弥藤治に剣を学び、その年、東北巡遊中だった藤本鉄石が齋藤家を訪ね清川に滞在することになる。この藤本鉄石との出会いは、清河の心に江戸遊学の志に火をつけた。翌年１８４７年（弘化４年）江戸に出て古学派の東条一堂に師事する。ここで才を認められた清河は東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞する。清河はさらに上の方を目指していたのだ。目指す先は昌平坂学問所。１８５０年（嘉永３年）３年間の許可を得て上洛し、梁川星厳に師事する。しかし清河はそれも物足りず、ついに九州を目指す。小倉～福岡～大宰府～佐賀～諫早～長崎～熊本～日田～日出と、有名な文人学者を訪ねながらの２ヶ月あまりの旅となった。その後江戸に戻り、昌平坂学問所を志し当時最高学府の安積艮斎塾に移るのだ。学問だけでなく、清河はその傍ら、北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得えて、文武両道を極め、昌平坂学問所に推挙されることになる。１８５４年（安政元年）念願の昌平坂学問所に入った清河だったが、その内容に失望したようだ。せっかく入った昌平坂学問所を辞めてしまい、江戸神田三河町に『清河塾』を開くことになったに。この時に名前を「清河八郎」に改めている。江戸市内で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであったそうだ。清河は１８５５年（安政２年）母親を連れて、清川村を出発。善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大阪、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料となっている。１８６０年（万延元年）桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王攘夷の思想が強まる。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。同年、八郎を盟主として『虎尾の会』結成。発起人は山岡鉄舟、松岡万、薩摩藩士・伊牟田尚平、益満休之助をはじめ他十五名。”国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていた。目的は『尊皇攘夷』－外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる。ただそれだけであった。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府に漏れ知るところとなる。しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となっていた。このことで八郎は追われる身となり、虎尾の会同志・妻お蓮・弟熊三郎らが連坐して投獄されてしまい、虎尾の会は分散してしまう。居場所を失った清河は潜伏先を回りながら、東西諸国を遊説してまわり尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。１８６１年（文久元年）清河八郎は伊牟田尚平と安積五郎とともに上洛し、田中河内介を介し、当時全国の志士に募り動かそうとしていた、京の公卿・中山忠能の長子忠愛より書簡を預かり九州遊説につく。真木和泉、村松大成、川上彦斎、宮部鼎蔵、平野国臣らと今後の方略を会談している。１８６２年（文久２年）薩摩藩主・島津久光の上洛が倒幕の狼煙であるという号令のもと、全国各地の尊攘派志士に呼びかけ、京都で挙兵しようと画策した。しかし島津久光の本心は倒幕ではなく公武合体であったため、意見の対立した薩摩藩士同士が斬リ合うこととなった。「寺田屋の変」で、その画策は挫折してしまう。その後再三勅旨が江戸に下り、将軍家茂の上洛と公武一和の義が進展した。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　図説新選組　Price1,890 円新選組468隊士大名鑑　Price1,799 円新選組全史（上）　Price2,940 円</description>
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<category>尊王論者</category>
<pubDate>Tue, 16 Sep 2008 15:27:40 +0900</pubDate>

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<title>頼三樹三郎　反逆の四天王</title>
<description>「反逆の四天王」の一人、頼三樹三郎。頼三樹三郎も、池内大学、梅田雲浜、梁川星巌らとともに要注意人物として幕府に目を付けられて安政の大獄で捕らえられてしまう。１８２５年（文政８年）有名な儒学者・頼山陽の三男として京都三本木に生まれる。父　頼山陽の死後、しばらく父の弟子の児玉旗山の塾に通うが、旗山が没すると、１８４０年（天保１１年）には大坂に行き後藤松陰の塾に寄寓し、かたわら篠崎小竹に学んだ。大坂に居るときに篠崎小竹を通じて幕府高官の羽倉簡堂と知り合い、１８４３年（天保１４年）羽倉が江戸に戻るとき三樹三郎も一緒に江戸に赴いている。江戸においては昌平黌に入学し学んでいるが、このとき、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯篭を破壊するという事件を起こして退学処分とされている。三樹三郎は、このときすでに尊皇運動に感化されており、幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えていたのだろう。過激な行動はその後も続いていく。その後１８４６年（弘化３年）には東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。１８４９年に京都に戻り、再び勤王の志士として活動をしはじめる。それでも、母が存命している間は母の注意もあって自重していたが、やがて母も死没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだいくのだ。１８５３年（）ペリーが浦賀に来航すると一気に尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始める。こうなると、おとなしく家の塾を指導していられるような性格ではない三樹三郎は尊王の大儀を唱えて幕政の非を唱え続けていく。父の旧友である梁川星厳や梅田雲浜らとともに有志公卿の間に入説。１８５８年（安政５年）将軍継嗣問題について、一橋派と結んではげしく幕政を攻撃、一橋慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、ときの大老　井伊直弼の安政の大獄により、いち早く梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされて捕縛される。捕らえられた頼三樹三郎は江戸の福山藩邸において幽閉され、幕府の激しい詰問を受ける。福山藩主の侍講・石川和助は、たまたま父・頼山陽の弟子であったため石川は三樹三郎の助命嘆願に走るのだが、それも虚しく１８５９年江戸小塚原刑場で斬首されてしまうのだ。頼三樹三郎　享年３５歳。ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。　　　ＤＩＡＲＹ（初回限定盤）（ＤＶＤ付）/青山テルマおすすめ度&amp;nbsp;：コメント：大ヒットシングル「そばにいるね　青山テルマ　ｆｅａｔ．ＳｏｕｌＪａ」、デビューシングル「ＯＮＥ　ＷＡＹ」他全１３曲収録予定の１ｓｔアルバムのリリースが決定。ＫＲＥＶＡ／ クレバのベスト盤（初回限定盤）（ＤＶＤ付）おすすめ度&amp;nbsp;：コメント：日本のメジャー・シーンにヒップホップを定着させた貢献者の一人、ＫＲＥＶＡのベスト・アルバム。メジャー第１弾となった「音色」や草野マサムネとのコラボが話題を呼んだ「くればいいのに」などのヒット・ナンバーに加え、新録曲も収録。ＤＶＤ付き。</description>
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<category>尊王論者</category>
<pubDate>Fri, 21 Mar 2008 14:26:55 +0900</pubDate>

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<title>攘夷の支柱　梅田雲浜</title>
<description>攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの精神的なリーダー梅田雲浜。吉田松陰が斬首さっれるきっかけになってしまった人である。１８１５年（文化１２年）小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。幼名を義質のち定明といい、通称は源次郎といいました。藩校・順造館で学び、１８３０年（天保元年）、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、梅田雲浜の名が有名になっていく。大津に湖南塾を開いていたが、１８４３年（天保１４年）には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。日本が対外関係で緊迫化するのなか、海防策に関する意見書を藩主に提出しました。これが藩主・酒井忠義の怒りに触れて、藩籍を剥奪された。翌１８５３年（嘉永６年）、アメリカのペリーが浦賀に来航すると日米条約反対と外人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの精神的なリーダーとなり、幕政を激しく批判。十津川郷士の周旋、長州藩や水戸藩への遊説など忙しい日々をすごす。また、稼いだ金は他の志士との交流のためにそのほとんどを費やすなど、まさしく尊王攘夷運動のために人生を捧げるような毎日が続いた。藤田東湖、佐久間象山、高杉晋作らと交際をし、また、梁川星巌と共に在京志士の合意をとり､一橋慶喜を将軍後継とすることに尽力､また大老　井伊直弼を斥けて幕府の改造を図ろうとし､大義名分を説いて志士を指導した｡京都の尊王攘夷派の中心として活躍､幕閣からは梁川らと共に｢悪謀の四天王｣と目されていた｡１８５８年８月　水戸藩に降下した「戊午の密勅」も､青蓮院宮に提出した梅田雲浜の意見が朝議の参考になったものである｡しかし激し過ぎる雲浜の活動は、時の大老・井伊直弼の怒りを買い、安政の大獄にて捕縛され、獄中の人となってしまう。江戸に檻送され､小倉藩主小笠原忠嘉邸に預けられたが､幽囚中病にかかり､１８５９年（安政６年）９月１４日病死した｡享年４５歳であった｡梅田雲浜の有名な漢詩君が世を思ふ心の一筋に吾身ありとは思はざりけりブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。　　　</description>
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<category>尊王論者</category>
<pubDate>Mon, 17 Mar 2008 17:47:08 +0900</pubDate>

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