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<title>吉田松陰と幕末の志士</title>
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<description>吉田松陰と幕末の志士たちの志に学ぶ。激動の時代　命をかけて走り抜けた志士達。</description>
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<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>松陰の門弟たち　記事一覧</title>
<description>吉田松陰の門弟たち●　『吉田稔麿』－－－松陰が信頼した才能●　『有吉熊次郎』－－－実直に生きた男●　『寺島忠三郎』－－－忠義の門弟●　『時山直八』－－－奇兵隊の猛将●　『前原一誠』－－－誠実さ人に過る●　『山縣有朋』－－－陸軍の建設者●　『山田顕義』－－－用兵の妙、神の如し●　『品川弥二郎』－－－奔走する●　『野村靖』－－－兄の無念を晴らす●　『伊藤俊輔』－－－志士の目覚め●　『伊藤俊輔』－－－偉大なる桂小五郎の復帰ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Thu, 17 Jul 2008 17:02:26 +0900</pubDate>

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<title>吉田稔麿　松陰が信頼した秀才　</title>
<description>松下村塾四天王の一人吉田稔麿１８４１年（天保１２年）長州藩下級武士の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。吉田姓は自称で、幼名は栄太郎。久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に仕え、１８５６年（安政３年）に帰郷し、１１月、１６歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿の三人を松陰門下の三秀と呼び、入江九一を入れて「松下村塾四天王」と称され、松下村塾の発展に貢献していく。松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」『実甫（久坂）の才は縦横無尽なり。暢夫（高杉）は陽頑、無逸（吉田）は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり常にこの三人を推すべし』と高く評価した。１８５７年（安政４年）藩命で江戸に出て、久坂玄瑞らとともに幕府の最新情報を藩に伝える傍ら、桂小五郎とも親交し、錬兵館で神道無念流の剣を学んでいく。１８５８年（安政５年）に松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師・吉田松陰の元を一旦離れることになる。稔麿自身は離れたくはなかったのだが、時勢が公武合体へと動き始めており、幕府の攘夷派の取締りが厳しくなっていたためやむ得ずいったん距離を置くことにしたのである。しかしこれが師である松陰との永遠の別れになるとは思ってもいなかったであろう。１８５９年（安政６年）ついに安政の大獄にて吉田松陰が処刑されてしまう。松陰の死後、暫く志士としての活動を控えていたが、突如脱藩して江戸へむかう。おそらく心の中の閉じ込めておいた炎が再び燃え始めたのであろう。その目的は旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わることであった。この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれている。１８６２年（文久２年）長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩し、京で行なわれた松陰の慰霊祭に参加している。その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じていくこととなる。１８６３年（文久３年）７月には、高杉晋作が作った奇兵隊の結成に参加。士籍に加えられた。元々足軽の身分だった稔麿は身分階級の差別に苦しんでいたこともあり、被差別部落の有志を集めて「屠勇隊」を設立する。　「人はすべて平等である」　という松陰の思想を具現化した行動だった。奇兵隊の引き起こした朝陽丸事件や８・１８の政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作に奔走すのだ。１８６４年（元治元年）６月５日池田屋事件、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受ける、助けを求めに河原町の長州藩邸まで行くが門は硬く閉ざされたままであり、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の会津藩士に出くわして奮戦するも討死した。吉田稔麿　享年２４歳。あまりにも惜しまれる死であった。松下村塾において頭脳明晰、志も高い稔麿は文武両道に秀でていた。もう少し永く生きていたなら時代はもっと早くに安定していたのかもしれない。吉田稔麿の死後1ヶ月、同胞の久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一らも蛤御門の変にて皆、散っていくのである。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！　　　　　　</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Sun, 01 Jun 2008 09:23:00 +0900</pubDate>

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<title>赤根武人　志を疑われ無念の死</title>
<description>無念の死を遂げた赤根武人長州藩　桂島の医師・松崎三宅の次男に生まれた赤根武人。１５歳の時に妙円寺の僧侶・月性の清狂草堂に入塾し学び、その後に長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となる。１８５６年（安政３年）吉田松陰の松下村塾に入門。おそらく月性の勧めがあったのだろうと思われる。１８５７年（安政４年）には梅田雲浜の望南塾に入塾したが、安政の大獄にて梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。帰郷した赤根は高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に１８６２年（文久２年）英国公使館焼き討ちを行い、翌１８６３年（文久３年）攘夷の詔勅が発せられ、それにより長州藩は関門海峡を通過する諸外国の商船を砲撃した。下関戦争である。しかし力の差は歴然で、手痛い反撃を受け、これを契機として長州は攘夷から開国へと急展開していくことになる。　この馬関先戦争で武士集団が卑怯で戦意に欠けていることが露呈、藩主　毛利敬親は高杉晋作に打開策を命じた。高杉は下関の豪商　白石正一郎の資金でもって奇兵隊を創設。赤根もいち早く参加し、隊員の確保に東東奔西走し、ついに奇兵隊を作り上げた。このとき赤根の故郷の志士は赤根の人徳を慕いこぞって入隊している。１０月には奇兵隊の奇兵隊総管河上弥一が憤死したため、赤根武人は第三代総管に就任することになる。しかし、１８６４年（元治元年）禁門の変が起こり、長州勢が敗退すると、長州内は紛糾し始める。禁門の変により主だった者を失っていた正義派は藩政の実権も弱くなり、俗論派が次第に実権を握るようになっていた。長州征伐をまえに両派が殺伐とした状況をつくっており、幕府軍が押寄せる中、長州藩は危機的状況に追い込まれていったのである。この混乱をとりあえず回避するため俗論派は、禁門の変の軍事統帥関係者として三家老四参謀を処刑し、諸隊の解散を命じ、ひたすら幕府に恭順の意を表明した。これにより一先ず幕府に許しを得たのだが、長州藩内は、なおも紛糾していた。これ察した赤根は、第一次長州征伐後に藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を試みるのである。赤根は禁門の変時の責任者として収監されている７名の政務員を釈放するよう働きかけた。俗論派は、救命と引き替えに奇兵隊の解散を要求してくる。しかし、このことが同志に二重スパイとして疑われる契機となってしまう。赤根が時山直八と共に諸隊解散令撤回の目的をもって萩に出張している際に、高杉晋作が功山寺決起する。正義派の藩政復活の狼煙であった。赤根は解散の命令を受け、下関に戻ってこの命令を隊士に伝えるが、高杉は赤根が俗論派の連中に抗論せずに戻ってきたことを憤慨し、斬り合いになりそうになるのだ。隊士たちもまた、「解散はできない」と主張し、赤根を殺害しようとする。赤根自身としては、同じ長州人同士が争っていては倒幕もクソもあったもんじゃない。今は皆で力を合わせるときなんだ。という気持ちであったのだろう。どうしても自分の意見と隊士の意見が相容れないものであることを悟り、これにより赤根は身の危険を感じ、１８６５年（慶応元年）１月、出奔して上方へ赴いた。京、大坂は禁門の変後、長州人の取締りが厳しく、その後赤根は、幕府に捕縛されてしまう。幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らの肝いりで１１月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これがさらに赤根武人が疑われる原因となった。赤根は広島から長州に潜入し、生誕地である柱島を潜伏場所に選んでしまった。１２月には長州藩士槇村半九郎に捕縛され、翌年１月、山口の鍔石で処刑されてしまうのだ。赤根は何度も獄中から自分の意見を訴えようとしたが、かなわず握り潰され尋問されることもなかったという。旧配下の奇兵隊士たちが、元総管の面目の故をもって、武人を隊営に引き取って切腹させることを請願したけれども、それも許されず。赤根もまた、志を述べて刑に就くことを求めたけれども、それも許さることはなかった。赤根武人　享年２９歳。あまりにも無念な死であった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！長州奇兵隊Ｐｒｉｃｅ819 円幕末入門Ｐｒｉｃｅ760 円幕末維新人物列伝Ｐｒｉｃｅ1,680 円</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Thu, 15 May 2008 12:07:00 +0900</pubDate>

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<title>有吉熊次郎　実直に生きた男</title>
<description>実直に生きた志士有吉熊次郎１８４２年（天保１３年）有吉忠助の次男として生まれる。藩校の明倫館に学んだのち、１８５７年（安政４年）１６歳の時に吉田松陰の松下村塾に入塾する。松下村塾において松陰の教えを学んだ有吉は他の門弟同様に尊皇攘夷に傾倒していくことになる。１８５８年（安政５年）松陰の老中間部詮勝暗殺計画に血盟したことから、外叔の白根多助により家に幽閉される。 松陰自身も捕縛され投獄、そして松下村塾も閉鎖をされてしまうのです。長州藩としてはこれ以上松陰が幕府から目を付けられるのを心配した行動でした。１８６１年（文久元年）有吉は高杉晋作に随い江戸へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入る。 江戸において様々な人と交流をして益々攘夷論に拍車をかけることになっていく。その最たるのもが１８６２年（文久２年）有吉は高杉ら同志と武州金澤で外国公使を刺殺しようと計画したが、久坂玄瑞が土佐の武市瑞山に話した事から、山内容堂を介して長州世子・毛利定広に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられることになる。謹慎中の有吉ら同志は御楯組結成の血盟書を作る。血盟書に署名のある同志は、有吉をはじめ高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎、の１１名である。そして有吉達は品川御殿山の英国公使館焼き討ちを決行するのだ。文久3年（1863年）、藩命により航海術を学び、その後京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進している。８．１８の政変により長州藩は京での権力を失い、多くの志士達も長州へと戻っていき、有吉も帰国する。帰国後、久坂、堀真五郎らと山口にて八幡隊を結成。 １８６４年（元治元年）池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。次第に時勢は長州にとって憂慮すべき自体になっていく中、有吉は急進派の藩士らとともに上京し、禁門の変に参加していく。有吉は久坂、寺島らとともに行動し、最後は鷹司邸内で自刃することになる。有吉熊次郎、享年２３歳であった。有吉は何を思い何を考え走り抜いたのだろうか？明治維新後の日本をどう見ていたのだろう。ランキングはこちらをクリック！松下村塾と吉田松陰Price1,155円 江戸の終わり、多くの俊才を輩出した松下村塾。物置き小屋を改造した粗末な塾舎で、一年あまりの短い間、松陰は若者たちに何を授けたのか。松下村塾で学んだ若者たちと、吉田松陰の教育法をさぐる。</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Tue, 15 Apr 2008 15:24:16 +0900</pubDate>

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<title>寺島忠三郎　忠義の門弟</title>
<description>松下村塾きっての忠義の人、寺島忠三郎１８４３年（天保１４年）寺島直一の子として生まれる。藩校明倫館に入り学び、１６歳のときに吉田松陰の松下村塾に入塾し、尊皇攘夷派の志士として成長していく。１８５９年（安政６年）安政の大獄により吉田松陰は江戸に送られることになると、当時、高水にいた寺島忠三郎は呼坂まで来ると、松陰と無言の別れを告げ、松陰と寺島忠三郎は別れの詩を交歓した。かりそめの今日の別れは幸なりき　ものをも言はば思いましなん　　松陰よそに見て別れゆくだに悲しさを　言にも出でば思いみだれん　　　忠三郎１８６２年（文久２年）高杉晋作は、「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。ちょうどその頃、外国公使がしばしば武州金澤（金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志らと相談されるのだ。しかし、久坂玄瑞が土佐の武市半平太にこのことを話したことから、これが無謀であるとして山内容堂が毛利定広に伝えたために実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。このとき寺島も血盟書に名を連ね、そのほかに血盟書に署名したのは、高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎の１０名に参加であった。１８６３年（文久３年）、８．１８の政変で長州藩が失脚した後、窮地に追い込まれた長州藩。１８６４年（元治元年）池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、もはや福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派を抑えることは出来ず、長州藩は討薩賊会奸を掲げて挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。寺島もこれに従軍し久坂らと行動をともにしている。会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅状態になってしまう。寺島忠三郎は久坂玄瑞、入江九一とともに鷹司邸内に立てこもって応戦しました。そのうち鷹司邸は会津、桑名など諸藩の兵に囲まれていく。久坂は参内する鷹司父子に朝廷での取りなしをしてもらおうと懇願するが聞き入れてもらえず、幕府軍の攻撃が激化してくると鷹司父子は脱出してしまった。残された寺島らは出の不可能を悟って死を覚悟します。久坂は負傷いていたために寺島、入江に脱出して毛利敬親にこのことを伝えて欲しいと頼みます。しかし、寺島、入江両名ともに久坂とともに残ると言い張ります。久坂はなんとしても長州藩を守るためにと、入江を説得しその役目を託しました。残った寺島と久坂は諸肌を脱いで刀を手に取り、最期は、互いに刺し違えたといいます。寺島忠三郎、享年２１歳であった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Sun, 13 Apr 2008 11:27:55 +0900</pubDate>

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<title>時山直八　奇兵隊の猛将</title>
<description>奇兵隊の猛将・時山直八１８３８年（天保９年）士雇　時山茂作の子として生まれる。幼名は松太郎、直八は通称である。１３歳頃から、時山は城下に住む藩の槍術師範・岡部半蔵のもとに通って、宝蔵院流を習い始める。ここには、山縣有朋が同門でいた。槍の稽古に打ち込んでいた時山だが、１９５８年（安政５年）松下村塾に入門する。時山２１歳のときである。門下生としては、かなり末期の入門生で、しかも入門時の年齢もやや高い。時山がどういった経路で吉田松陰のもとに入門するに至ったのか、はっきりしたことはわからないのだが、入門直後から松陰の教えに傾倒し、松下村塾で寝泊りしながら勉学に打ち込むこともあったようだ。その熱心さに、松陰も「中々の奇男子なり、愛すべし」と一目も二目も置く存在であったらしい。しかし時代は井伊直弼による取締りが強くなってきており、その波は長州にも押寄せてきていた。松陰の過激な発言と行動を危惧した周布政之助は　松下村塾は閉校させ、松陰を野山獄に閉じ込めていたのである。周囲の門弟たちも家族のことなどもあり少し松陰との距離を置くようになるのだ。時山も松陰が再下獄される頃からしだいに疎遠となり、そのころ家督を継いだこともあって、実家に引きこもった状態になっていた。そして１８５９年（安政６年）安政の大獄により江戸に送られた吉田松陰は処刑されてしまうのである。１８６０年（万延元年）江戸詰めを命じられて出府した時山は、江戸遊学を許されて滞在していた久坂玄瑞たちと行動を共にすることが多くなっていた。その一方で、槍の稽古にも通い、儒学者・安井息軒の主宰する三計塾にも入門する。１８６２年（文久２年）尾寺新之丞らとともに。「航海遠略策」を朝廷に周旋するために上洛する、長井雅楽の供として京都へ随従する。ちょうどこの頃、「航海遠略策」に反対し、長井その人の暗殺をも計画していた久坂や山縣たち松門生たちである。久坂たちの過激な行動をなんとか思いとどまらせようと時山たちをあえて送り込んだのは、桂小五郎であった。桂はこれ以上無駄な犠牲は出したくない、今はまだ時期尚早であると判断していたためである。久坂たちの暴走を抑える役目も、時山たちは請け負っていた。１８６３年（文久３年）時山は主に久坂たちと行動を共にしており、石清水八幡宮行幸にも警備の一員として随従し、馬関での攘夷決行時には光明寺党の一員として出撃している。８．１８の政変時にも、禁門の変にも常に久坂や桂たちと行動し、また奇兵隊にも早くから参加し、戦いの最前線に立ち続けた。１８６４年（元治元年）四国艦隊との馬関戦争では、奇兵隊を率いて前田砲台の攻防戦を指揮し、１８６６年（慶応２年）の四境戦争において、軍監山縣を補佐する参謀として、4ヶ月に及ぶ激戦の最前線で陣頭指揮をした。１８６８年（慶応４年）北陸道鎮撫総督参謀の山縣有朋らとともに越後へ向かうことになる。越後長岡藩は強く、佐幕派諸藩の連携も取れており、長岡城攻略は難航した。攻略の要となる朝日山・妙見峠を会津藩兵から奪還すべく、５月１３日奇兵隊の精鋭は峠を攻め上るのだ。いったんは会津藩兵を退却に追い込んだのだが、桑名藩から応援に来ていた立見鑑三郎率いる雷神隊の猛反撃にあい、陣頭にて指揮していた時山は、敵兵に撃たれて即死。戦場の最前線であったので、奇兵隊士が時山の首を掻き斬り持ち帰るのが精一杯で、遺体はその場に泣く泣く放置して退却せざるをえない状況であったという。時山直八、享年31歳であった。この時山の戦死は、山縣や品川弥二郎をはじめとする門弟たちに動揺を与えた。山縣は時山の首を目にしてショックを隠しきれず、品川は後々まで山縣に対し「時山を殺したのはお前だ」と非難を続けたという。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！動乱の長州と人物群像 Price\2,100 </description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Fri, 11 Apr 2008 13:37:42 +0900</pubDate>

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<title>前原一誠　誠実さ人に過る　</title>
<description>前原一誠は佐世彦七の長男として生まれ、本姓は宇多源氏佐々木氏流。正式な名乗りは源 一誠。通称は八十郎、彦太郎。従四位。 遠祖はあの尼子氏重臣で、のちに毛利氏家臣となった佐世清宗である。１８５７年（安政４年）久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰からは｢誠実さ人に過る｣と愛されたようだ。１８５９年（安政６年）安政の大獄で松陰が処刑された後は長崎で洋学を学んだ。１８６２年（文久２年）には久坂玄瑞らとともに脱藩して、師匠である松陰の江戸護送を阻止しなかったことから恨んでいた藩の直目付である長井雅楽暗殺を計画。しかし、暗殺実行前の文久3年（1863年）、雅楽は奸物として藩命により切腹となってしまい、これは徒労に終わり、その後、７月に攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き､帰藩して８．１８の政変により京を離れ長州藩を頼った三条実美ら七卿の用掛となっている｡１８６４年（元治元）の馬関戦争で外国艦隊と戦い､１８６５年１２月１５日高杉晋作が伊藤俊輔や石川小五郎らわずか８０人を率いて起こした功山寺挙兵に行動を共にし、長州藩の政権を掌握します。その後は倒幕運動に協力し、明治元年（1868年）の戊辰戦争では会津戦線で活躍した。この功績により、明治政府では参議に任じられて重用され、大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねた。しかし前原はろくろく出省せず、その為、船越衛は前原不出仕による省務の停滞を度々嘆いている。また、戦いは武士が行うものだと信じる前原一誠は大村の目指した「国民皆兵」路線（徴兵令）に反対して、同じ長州藩出身者である木戸孝允と対立する。やがて大村の路線の後継者である山縣有朋に追われる形で下野し、明治9年（1876年）に奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こした。しかし即座に政府軍によって鎮圧され、前原は捕らえられて処刑されたのである。享年４３歳、誠実すぎる前原の人柄は時代の変化に着いては行けず、同じ門弟たちからも遠ざけられてしまった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Thu, 10 Apr 2008 13:19:28 +0900</pubDate>

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<title>陸軍の建設者　山縣有朋</title>
<description>陸軍の建設者　山縣有朋萩藩の下級武士である蔵元付中間、山縣有稔・松子の長男として生まれる岡部半蔵に槍術を学びました。１８５８年（安政５年）藩命で事情探索のため上京し、京都において梅田雲浜や梁川星巌と交わり尊皇攘夷に目覚めることとなる。京にて尊皇攘夷派の影響を受けた山縣は、長州に戻ると久坂玄端の紹介で松下村塾に入門する。そこで生涯師と仰ぎ続けた吉田松陰と出会うのだ。入門して僅かにして吉田松陰は捕縛される。山縣の松下村塾在塾期間は極めて短く、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明であるが、松陰から多大な影響を受けたことは間違いはない。山縣は松陰を終生深く畏敬していたし、生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたという。翌年江戸に送られた師・松陰は斬首され、他の門弟同様に山縣の心にも倒幕の決意は固まった。１８６３年（文久３年）に、上海に渡航した高杉晋作に代わって奇兵隊軍監として大いに活躍。１８６４年（元治元年）の四国連合艦隊（馬関戦争）との交戦で負傷した際、武器と兵制の改革の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に転じていくことになる。これは高杉や他の門弟たちも同じで、長州だけの力ではどうにもならないことを実感した瞬間でもあった。明治元年の戊辰戦争には、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡攻略戦に河井継之助らと戦う（苦戦）、後に会津攻略にも参加。１８６９年（明治２年）には渡欧し、各国の軍事制度を視察し、翌年帰国した後は暗殺された大村益次郎の遺志を継いで軍制改革を行い、徴兵制を取り入れた。明治6年（1873年）に陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に深く関わる。伊藤博文なきあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなし、首相選定の主導権を握る。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。当時の国民、政治家、皇室からはことごとく不人気であったが、昭和天皇は軍人・山縣有朋を評価している。大正１１年、８５歳で亡くなった。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！ガルーダのアジアン石像（オブジェ置物）Price9,300円アスマットのアジアン石像A（オブジェ置物） Price5,250円ブロンズ猫のアジアン銅像（オブジェ置物） Price3,500円</description>
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<pubDate>Wed, 09 Apr 2008 11:44:25 +0900</pubDate>

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<title>山田顕義　用兵の妙、神の如し</title>
<description>日本大学の祖　山田顕義。１８４４年（弘化元年）萩藩士・山田七兵衛の長男として生まれる。松本村の新山直衛塾に学び、また、伯父山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。その後、藩校明倫館に学んだ後、１５歳の時に伯父の勧めで松下村塾に入門、吉田松陰に師事する。松陰にとって最年少の門下生だったようである。１８６２年（文久２年）高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねる。その後、長州藩の内乱に参戦するなど倒幕の志士として数々の戦いに参加。１８６３年（文久３年）孝明天皇の攘夷祈願の賀茂社行幸にあたり、御前警護のため世子毛利定広に随行し、４月１１日には石清水八幡宮への行幸にも同様に随行している。 そして８．１８の政変で、堺町御門を戒厳、大砲掛となるが、三条実美以下７人の尊攘派公卿とともに長州亡命に同行。途中、兵庫から大坂経由で京都へ上り潜伏し、１２月に長州に帰国している。帰国した山田は藩から遊撃隊御用掛を命ぜられ、普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んでいる。この大村益次郎との関係は後々まで重要な関係になっていく。蛤御門の変にも当然ながら参陣し、山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わり奮戦するも、長州軍は大敗し、なんとか逃げ帰っている。この蛤御門の変で長州は久坂、入江、寺島などの有望な若者を失い、残った山田達は苦労していくことになる。残党狩りを掻い潜り長州に戻った山田は大田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の馬関戦争で奮戦するが、ここでも長州藩は敗北してしまう。このことで外国の力を再確認させられ、なおかつ１藩倒幕の困難を認識させられたものと思われる。求心力を失っていた長州藩は対幕恭順論の「俗論派」による藩支配が進み、しばらくは山田達も身の危険にさらされる生活が続いていた。そこに高杉晋作の決起行動がおこり、これに参戦し勝利に貢献し「俗論派」を排除し、藩論を倒幕に統一する。薩長同盟により倒幕の動きが強くなってくると幕府は長州藩を危険分子とし再び長州征伐を試みる。山田顕義は１８６６年（慶応２年）第二次長州征伐に際し、藩海軍総督の高杉晋作から小型砲艦・丙寅丸の砲隊長に任命され、周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃し、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めていく。第２次長州征伐は薩摩の不参加や、長州軍の最新兵器、幕府軍の統率の悪さなどの理由により長州の圧勝で終わる。先の戦いでの実力が認められ御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。薩摩藩からの倒幕のための出兵要請を受けた藩主毛利敬親の命で、全軍総督毛利内匠の東征軍先鋒隊７００余とともに海路東上、京都に入り、 １８６８年（慶応４年）鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府・仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命され、勝利に導いていく。その後は陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、東北諸藩との戦いや箱館戦争で勝利した。維新の軍功により新政府から永世６００石の禄を下賜されるが、そんなおり大村益次郎の暗殺未遂がおこる。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力するしていく。 維新後、明治7年に江藤進平らが起こした「佐賀の乱」、明治10年に西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参加し、いずれも鎮圧。その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評された。明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院（現在の國學院大学）を設立、その後公私法律学校を育成した。明治25年帰郷途中、生野銀山で急逝。享年49歳ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！ </description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Tue, 08 Apr 2008 14:56:58 +0900</pubDate>

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<title>品川弥二郎　奔走する</title>
<description>１８４３年（天保１４年）萩の足軽･弥市右衛門の長男として生まれる。通称:省吾､弥吉､弥二郎｡変名:橋本八郎､松本清熊。品川弥二郎は、近所で評判の松下村塾に入門したいと父に願い出る。父に許され、１８５７年（安政４年）松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるようになる。学問に熱心な品川は、近所に自宅があったにも関わらず、時間を忘れて泊り込むこともしばしばだったという。その当時の品川を松陰は「温厚、正直で人情に厚く、うわべを飾らない人物である。能力が抜きん出てはいないが、心が広く奥深いのが優れたところだ」と評している。そんな一生懸命に学ぶ品川であったが、程なくして松陰が捕縛されてしまうために実際は松陰といた時間は長くはない。しかし、翌年の１８５８年（安政５年）１２月には梅田雲浜に捕縛に絡み、松陰が捕縛され野山獄に投獄されると、品川は松陰の冤罪を訴えて謹慎させられてしまう。１８５９年（安政７年）井伊直弼による安政の大獄で松陰が処刑されると、高杉晋作と行動を共にし、尊王攘夷運動に加わった。他の門弟たちと同様に松陰の死によって倒幕の強い意思を固めたことは間違いないだろう。文久２年上京して寺田屋事件に関与していたとおもわれるそして江戸に行き､高杉晋作らとともにイギリス公使館を襲撃計画をたて､御楯組の血盟に参加した｡１８６３年（文久３年）８．１８の政変により一時長州に帰国する。このとき品川弥二郎は、追放された七卿とともに世話役として長州まで同行した。そして長州は運命の１８６４年（元治元年）禁門の変を向かえるのだ。品川は禁門の変では八幡隊の隊長として参戦。この戦いで、久坂玄瑞や、入江九一、寺島忠三郎など、先輩塾生を失い、品川自身も敗れると、西本願寺にかくまわれ、僧侶の変装をして、やっとのことで脱出したといわれている。長州にとってはあまりにも多くの犠牲が出た戦いであった。敗れてなんとか帰国した品川弥二郎は山田顕義らと協力して御盾隊を組織し、再度攻めてくるであろう幕府軍に備えていた。１８６５年（慶応元年）木戸孝允と共に上京し、薩長同盟の連絡役となり、そして同盟成立後、薩摩藩の人質となっている。薩長同盟の成立により倒幕の勢いが加速していくと品川もその最前線にて奮戦していく。大久保一蔵と岩倉具視に会い､錦旗調製のことを託されるとともに､討幕の密勅を奉じて広沢兵助らと山口に帰ったのも品川である｡戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀として活躍。明治維新後の品川弥二郎は明治３年（1870年）、渡欧して普仏戦争を視察した。帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任し、明治24年（1891年）に成立した第1次松方正義内閣のもとで内務大臣となった。しかし、松方の命で次官の白根専一とともに内務省管轄下にあった警察を動員して、強力な選挙干渉を行なって死者まで出した経緯を国民から非難され、引責辞職を余儀なくされてしまった。その後は西郷従道と協力して国民協会を組織する。これは国権主義的な政治団体である。また、獨逸学協会学校や旧制京華中学校の創立、信用組合の設立にも貢献した。１９００年（明治３３年）５８歳で死去。戊辰戦争のとき、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」（「宮さん宮さん」）は、弥二郎が作詞者であると言われているブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！九州焼酎ネットは、鹿児島、宮崎を中心とした九州各地の蔵元より集めた本格焼酎(乙類)を二百種類以上取り揃え、地元でしか入手できない隠れた限定酒や、焼酎ブームで人気の幻、プレミアム銘柄まで、蔵元希望価格の正価販売通販できる焼酎専門店です。</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Mon, 07 Apr 2008 16:48:06 +0900</pubDate>

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<title>野村靖　兄の無念を晴らす　</title>
<description>野村靖、１８４２年（天保１３年）長州藩　入江嘉伝次の三男として生まれ、幼名を和作と言いました。兄に入江九一がおり、兄の九一が入江氏の家督を継いだため、靖は父の実家の野村氏の家督を継いだ。１８５７年（安政４年）１６歳の時に吉田松蔭の門に入り、常に尊攘の事に奔走し、吉田松陰からの信頼も厚かったようである。野村は兄・入江とともに１８５９年（安政６年）２月、老中　間部詮勝の暗殺計画に加わります。この計画は長州藩行相府宛てに、松陰自ら襲撃申請をしており、藩府より吉田松陰は投獄・松下村塾の閉鎖をもって阻止されてします。当然ながら野村も兄の入江も捕縛されます。どこの世の中に襲撃することを申請する人がいるのでしょうか？この辺りも松陰の実直なところなんでしょうね。その後、罪を許されて釈放されるのですが、松陰救出のため他の塾生たちが尻込みした「伏見要駕策」　（藩主を伏見で待ち伏せし、上洛して幕府の失政を問いただしてもらおうとするもの）に兄とともに立ち上がるのです。結局他の塾生から情報が漏れ、兄の入江九一の代わりに伏見要駕策を実行しようとした野村はまたしても逮捕され、共謀した罪で入江九一も投獄されてしまう。１８６２年（文久２年）には横浜のイギリス公使館の焼き討ちにも高杉晋作・久坂玄瑞たちの同志と血盟した。１８６４年（文久４年）８・１８の政変によって兄の入江九一を失い、長州も大敗すると、七卿とともに西下し、その御用掛として陪従し、また元冶元年の藩主雪冤運動に、慶応元年の藩論回復運動に尽力するところが多く、２年６月の幕長戦には芸州小瀬川口に出征した。明治４年７月宮内権大丞に任ぜられ、宮内少丞を経て外務大記に転じ、特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、６年７月帰朝して外務省に出仕し、８年外務権大丞となり、９月江華島事件に際しては黒田清隆に随行して朝鮮に出張。ついで神奈川県権令、１１年同県令となり、１４年駅逓総監、１８年逓信大輔心得、１９年逓信次官に進んだ。２１年枢密院顧問官、２４年フランス等の外国公使を勤め、２７年第二次伊藤内閣内務大臣、第二次松方内閣逓信大臣となり、４０年富美宮・泰宮両内親王養育掛長を勤めて晩年に及んだ。ついで脳溢血症のため鎌倉御用邸で病死した。年６８没。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Fri, 04 Apr 2008 18:30:45 +0900</pubDate>

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<title>伊藤俊輔　偉大なる桂小五郎の復帰</title>
<description>長崎にて潜伏していた伊藤俊輔でしたが、同じく長崎にて逃亡していた高杉晋作がこのまま朽ち果てるよりは俗論派と戦って死んだほうがいい、と決意し兵を揚げます。伊藤俊輔も高杉に賛同し、力士隊を率いて決起し高杉らが挙兵して守旧派政権を倒し、２月初旬には正義派政権が誕生したのです。ちょうどその頃、広戸甚助なる者が伊藤と村田蔵六を訪ねてきます。広戸は出石で潜伏している桂からの手紙を携えてやってきたのです。新政権が誕生し、意気揚々としていたときだけにこの知らせは何よりの励みになったのでしょう。桂の居場所が分かったので長州の現状などを説き早急に戻ってきてくれるように催促するのです。それと同時に高杉、伊藤、井上は馬関の開港論者として、清末、長府両支藩の藩士らの怒りを買い、つけ狙われおり、三人は身の危険を感じ高杉は大阪へ奔り、井上は豊後別府に遁れ、伊藤は対馬に逃れる途中で長府の刺客に狙われ、茶店の娘お梅に助けられながら馬関の町内を転々としていました。１８６５年（慶応元年）禁門の変後、行方不明になっていた桂小五郎は長州に戻ってきました。戻っては見たもののそこには高杉達の姿がありません。桂は急ぎ藩の体制を整え、同志たちを呼び戻します。伊藤は紅屋の土蔵に隠れ潜んでいたときに、桂の潜伏先から馬関に帰ってきたという吉報を知り、翌朝、さっそく桂に会いにいきました。「小五郎の帰国は長州藩にとって、大旱に雲霓を望むがごとき有様だった」と伊藤俊輔は当時のことを振り返っているくらい長州は八方塞の状態だったのです。桂を迎えた長州は改進します。伊藤はまず長崎へ赴きグラバーから商船一隻、砲艦二隻を買付け、その船で下関に帰還。第２次長州征伐を前にしていたこともあり、長州は武器を欲しがっていました。そこに坂本龍馬、中岡慎太郎らが薩長同盟の話を持ってきます。１藩だけの倒幕は成し得ないとしていた桂は苦渋の決断で同盟に応じます。長州は薩摩から武器を貰い、長州からは兵糧を薩摩に送るという形で話はまとまり、伊藤は井上聞多と武器を受け取りに再び長崎に向かうのです。長崎にて薩摩の小松帯刀らから援助を貰い薩摩汽船「胡蝶丸」でミニエー銃四千丁、ゲーベル銃三千丁を三田尻に届けるのでした。その後も伊藤は長崎、下関を行き来し、武器調達や戦艦調達に奔走していく。薩長同盟後は薩摩藩士たちとも行動を共にし、村田新八と上海に汽船二隻購入の契約しに行ったりなどしている。実際の倒幕の最前線には赴いたのかどうかは分からないが、後方支援の物資調達などに尽力をしている。常に桂、高杉といった大物の傍らにおり、その姿を見ながら色々学んでいったのだろう。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Thu, 27 Mar 2008 13:35:25 +0900</pubDate>

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<title>伊藤俊輔　志士の目覚め</title>
<description>松下村塾の門下生であり、初代内閣総理大臣の伊藤博文。周防国熊毛郡束荷村の農民・十蔵、琴子の長男として生まれ、幼名は利助、のち俊輔。家は貧しく幼い頃より奉公に出る。父が萩藩の中間水井武兵衛（後に伊藤直右衛門と改名）の養子となったことにより下級武士の身分を得ることになり、そのことで松下村塾で学ぶようになるのだ。当然ながら松下村塾にて、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など多くの仲間と出会うことで尊皇攘夷運動に奔走することになる。どういった経緯かは分からないが、桂小五郎と行動を共にするようになる。１８５９年（安政６年）桂が江戸勤務を命じられると、桂は伊藤俊輔を共につれて江戸に赴くのである。江戸に着いた伊藤を待っていたのはとても辛い師・吉田松陰の死でした。安政の大獄により捕縛された吉田松陰は江戸に送られ１０月２９日斬首されます。伊藤は桂と共に吉田松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬します。他の門下生同様に伊藤の心にも倒幕の意志が固まった瞬間でもありました。１８６２年（文久２年）坂下門の変が起こり、これに失敗した水戸藩浪士の、川辺左治右衛門が長州藩邸にて自決したことにより、たまたまその場に居合わせた伊藤俊輔も幕府に拘束されることになりますが、幕府は桂のほうを重点的に調べ結局これといった因果関係が見つからないため為に釈放される。桂と共に江戸から京へと向かった伊藤は今日にて久坂とともに公武合体論を主張する長州藩長井雅楽の暗殺を画策しますが失敗に終わり、このことで桂の義弟・来原良蔵が自決するという予想外のことがおきます。伊藤は桂と良く行動を共にしていたので来原とも昵懇だったのでしょう。来原の遺骸を萩まで届けに行くのです。その後また桂と共に江戸に戻って行くのですが、１２月高杉晋作、久坂玄瑞らとともにイギリス公使館焼き討ちに参加するのです。慎重派の桂と行動派ともにはしていましたが、やはりそこは血気盛んな志士だったのでしょう高杉たちの過激な行動に惹かれて行きます。１２月２１日、山尾庸三とともに、国学者・塙次郎、加藤甲次郎を斬殺するという過激な行動をする。翌１８６３年（文久３年）伊藤は同じ松下村塾の門下生・入江九一の妹を娶り、その後すぐに士分として取り立てられる。５月には桂の後押しもあり、幕府に内密で藩からの許可も貰い、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共にイギリスに留学の旅に出るのである。イギリスにて文化の違いや国力の違いを痛感した伊藤俊輔は四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上聞多とともに急ぎ帰国、山口政治堂に入り攘夷戦争の中止を懇願するのだ。二人の説得も虚しく伊藤らを外国のスパイ扱いにして、二人を斬るべし、と激昂する者もいて、不穏な空気が藩内を満たしはじめていました。こうした空気を一掃するため、６月３０日、藩政府は改めて攘夷の布告を発して、決戦の覚悟します。そのころ長州の主力部隊は京に向けて進軍しており萩には戦えるだけの戦力はありませんでした。藩政府は伊藤、井上両名に４カ国との執り成しを頼みますが、そんな虫のいい話は４カ国も認めることはなく、京にいる桂に相談をしに向かっていた伊藤の下に品川弥二郎より長州軍が大敗し長州追討令が出された事が知らされます。伊藤は急ぎ萩に戻ります。京において久坂、入江、吉田など主力の仲間がすべて戦死してしまったこと、頼みの桂も行方知れずになっていること等、すべてが暗転していました。萩において頼みの綱は高杉晋作のみです。８月４日、４カ国艦隊の砲撃が一斉に火を噴きます。長州軍も応戦し頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。このままでは長州藩が壊滅状態になってしまう危険もありました。しかし藩内の攘夷派はそんな状況でも納得が出来ません。和議を提案する伊藤、高杉の命を狙う者も出る始末だったため両名は雲隠れしてしまいます。こうして伊藤俊輔は高杉と共に長崎に逃亡ししばらく身を隠すことになるのです。ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。ランキングはこちらをクリック！武蔵野 焼酎サーバー（台付）￥14,175（税込）武蔵野シリーズの焼酎サーバー。武蔵野焼酎カップ、武蔵野氷入れもあります。「どうせ買うなら揃えて！」というこだわり派にはお勧めです。いろは　￥21,000（税込）ひらがな文字のデザインは、やわらかい印象を与えてくれます。焼酎を貯蔵しておくと、いっそう口当たりのやわらかい焼酎になりそうですね。</description>
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<category>松陰の門弟達</category>
<pubDate>Wed, 26 Mar 2008 18:37:14 +0900</pubDate>

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