2008年08月15日
吉田松陰 独立不羈の国
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『独立不羈の国』

吉田松陰一日一言
我が国は三千年来未だ嘗て人の為に屈を受けず、宇内に称して独立不羈の国と為す。
我が国は、三千年来、これまで一度たりとも、他国に屈服したことのない国である。
世界に独立して、他国に縛られない国家、と唱えている。


吉田松陰 今日の一言
『独立不羈の国』
吉田松陰一日一言
我が国は三千年来未だ嘗て人の為に屈を受けず、宇内に称して独立不羈の国と為す。
我が国は、三千年来、これまで一度たりとも、他国に屈服したことのない国である。
世界に独立して、他国に縛られない国家、と唱えている。
タグ :吉田松陰
2008年08月14日
松本奎堂 右眼の志士
松本奎堂 天誅組三総裁の一人である。
松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。
秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。
三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。
松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。

1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
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松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。
秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。
三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。
松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。

1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
君がため みまかりにきと 世の人は 語りつぎてよ 峰の松風
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2008年08月14日
吉田松陰 恒産と恒心
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『恒産と恒心』

吉田松陰一日一言
恒の産なくして恒の心ある者は、惟だ士のみ能くすと為す。
此の一句にて士道を悟るべし。
諺に云う、武士は食わねど高楊枝と、亦此の意なり。
一定の生業をもっていなくても、不動の信念をもつことができるのは、ただ侍たる人物だけである。
この一句で侍たるものの道のあり方を悟るべきである。
諺に「武士は食わねど高楊枝」という。
これも同じ意味である。
吉田松陰 今日の一言
『恒産と恒心』
吉田松陰一日一言
恒の産なくして恒の心ある者は、惟だ士のみ能くすと為す。
此の一句にて士道を悟るべし。
諺に云う、武士は食わねど高楊枝と、亦此の意なり。
一定の生業をもっていなくても、不動の信念をもつことができるのは、ただ侍たる人物だけである。
この一句で侍たるものの道のあり方を悟るべきである。
諺に「武士は食わねど高楊枝」という。
これも同じ意味である。
タグ :吉田松陰
2008年08月13日
藤本鉄石 潔く散る
藤本鉄石 天誅組三総裁の一人である。
藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる
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藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる
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2008年08月13日
吉田松陰 人の患いは
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『人の患いは』

吉田松陰一日一言
若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。
人の患いは罪を犯して罪を知らざるにあり。
だいたい自分が正しくないことをしている、と分かっていながら改めない者は、本当にどうしようもない人である。
人の憂えるべきことは、罪を犯していながら、それを自覚していないことである。
吉田松陰 今日の一言
『人の患いは』
吉田松陰一日一言
若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。
人の患いは罪を犯して罪を知らざるにあり。
だいたい自分が正しくないことをしている、と分かっていながら改めない者は、本当にどうしようもない人である。
人の憂えるべきことは、罪を犯していながら、それを自覚していないことである。
タグ :吉田松陰
2008年08月12日
吉田松陰 風俗を美にせんとならば
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『風俗を美にせんとならば』

吉田松陰一日一言
風俗を美にせんとならば、平時気節を尚ぶに如くはなし。
気節を尚ぶは勤倹を励ますと直言讜議を奨むるに如くはなし。
人々の心、日々のしきたりや習わしなどを美しくしようとするなら、普段の生活において、気概や節操の堅さを敬って大切にし、重んじることである。
そのための最善の方法は、まず倹約をさせ、また、遠慮せず自分の信じるところを言い、正論を吐くよう奨めることである。
吉田松陰 今日の一言
『風俗を美にせんとならば』
吉田松陰一日一言
風俗を美にせんとならば、平時気節を尚ぶに如くはなし。
気節を尚ぶは勤倹を励ますと直言讜議を奨むるに如くはなし。
人々の心、日々のしきたりや習わしなどを美しくしようとするなら、普段の生活において、気概や節操の堅さを敬って大切にし、重んじることである。
そのための最善の方法は、まず倹約をさせ、また、遠慮せず自分の信じるところを言い、正論を吐くよう奨めることである。
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2008年08月12日
高杉晋作 奇兵隊との衝突
[高杉晋作] ブログ村キーワード
高杉晋作によって1863年(文久3年)白石正一郎の屋敷において産声をあげた奇兵隊。

「匹夫の志」も奪わないとうたった画期的な軍隊であった奇兵隊だが、結成はしてみたが矛先を向ける敵がいない。
外国艦隊もいっこうに姿を現さないし、熱くたぎった志は力の向けどころを探していた。
高杉は元々、奇兵隊を正規軍の発奮剤として考えていたこともあり、そのことが奇兵隊と正規軍の先鋒隊との軋轢に繋がっていくのだ。
そんな中、遂に行き場のない志は思わぬところで武力衝突をしてしまう。
先鋒隊と奇兵隊の衝突である。
これは死者1名を出す惨事になってしまう。
藩首脳は奇兵隊の解散を要求するほどだった。
藩主 毛利敬親は晋作を奇兵隊総督から藩 政務座に据え変え、奇兵隊総督に河上弥一と滝弥太郎を置いた。
この時点から奇兵隊は晋作の手を離れ、当初の構想とは違った道を歩むようになったのだ。
晋作と奇兵隊の最初の意見衝突は、1864年(元治元年)10月27日。
この頃、力を再興しつつあった長州藩内の「俗論派」を晋作は武力をもって倒そうとする。
晋作は奇兵隊の陣営を尋ね、軍監山県狂介に蜂起を促すのであるが、山県はあっけなく申し入れを断るのだ。
おかしな話である。
奇兵隊の生みの親の高杉晋作が要請しているにもかかわらず否を唱えているのだ。
失望した晋作は筑前に逃亡することになる。
逃亡した筑前で「俗論派」が「正義派」を粛清するウワサを聞いた晋作は、長州に舞戻りふたたび奇兵隊をはじめとする諸隊に蜂起を促す。
しかし、内戦を避けようとする諸隊は求めに応じることはなく、「奇兵隊開闢総督」のしての高杉晋作の威光このときには全く通じなかった。
晋作は僅かな者とともに下関にて挙兵。
内戦が始まると奇兵隊や諸隊は晋作に呼応し始め、「俗論派」の送った鎮圧軍を撃退することになる。
これにより一枚岩になったと思われた晋作と奇兵隊だったが、そうではなかった。
勝に乗じて萩城下まで攻めようとする晋作に対し、奇兵隊軍監山県はひとまず兵を退げ、萩の様子を窺ってから攻めようという。
結局諸隊も山県の意見に賛同したため諸隊は山口に移動してしまう。
萩を囲むように諸隊は配置し、じわじわと政権交代を「俗論派」に迫る。
その結果「正義派」が復権し新しい政権を生み出すのである。政権交代で血を流した諸隊の発言力は強くなっていき、諸隊は会議所を設け、ここに幹部が集い連絡し、会議において物事を決めていくシステムを作った。
こうした庶民や下級武士からなる奇兵隊や諸隊が力をつけることにより、藩の政治にまで影響力を持つことは晋作をはじめ、上級武士たちにとっては面白くないことだった。
とくに晋作にしてみれば自分が作った奇兵隊だが、自由にコントロールできない状態であったことは不満だったようだ。
元々は晋作は政権交代・攘夷倒幕のための「軍事力」としての庶民の力であり、政治に参加させる気はなかったのである。
打開策として晋作は藩士からなる『干城隊』を組織し、軍事力の中核となし、干城隊によって諸隊をコントロールしようとする。
しかし、この策も実現はしなかった。
諸隊はそれほどまでに力をつけてきており、藩もその諸隊の力がなくして幕府に立ち向かえないことを知っていたため、高圧的には出来なかったのだ。
実際に第二次長州征伐の時には諸隊が前線にて奮戦することで、長州藩は維新の厚い扉を押し開いていくことになるのだから。
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高杉晋作によって1863年(文久3年)白石正一郎の屋敷において産声をあげた奇兵隊。

「匹夫の志」も奪わないとうたった画期的な軍隊であった奇兵隊だが、結成はしてみたが矛先を向ける敵がいない。
外国艦隊もいっこうに姿を現さないし、熱くたぎった志は力の向けどころを探していた。
高杉は元々、奇兵隊を正規軍の発奮剤として考えていたこともあり、そのことが奇兵隊と正規軍の先鋒隊との軋轢に繋がっていくのだ。
そんな中、遂に行き場のない志は思わぬところで武力衝突をしてしまう。
先鋒隊と奇兵隊の衝突である。
これは死者1名を出す惨事になってしまう。
藩首脳は奇兵隊の解散を要求するほどだった。
藩主 毛利敬親は晋作を奇兵隊総督から藩 政務座に据え変え、奇兵隊総督に河上弥一と滝弥太郎を置いた。
この時点から奇兵隊は晋作の手を離れ、当初の構想とは違った道を歩むようになったのだ。
晋作と奇兵隊の最初の意見衝突は、1864年(元治元年)10月27日。
この頃、力を再興しつつあった長州藩内の「俗論派」を晋作は武力をもって倒そうとする。
晋作は奇兵隊の陣営を尋ね、軍監山県狂介に蜂起を促すのであるが、山県はあっけなく申し入れを断るのだ。
おかしな話である。
奇兵隊の生みの親の高杉晋作が要請しているにもかかわらず否を唱えているのだ。
失望した晋作は筑前に逃亡することになる。
逃亡した筑前で「俗論派」が「正義派」を粛清するウワサを聞いた晋作は、長州に舞戻りふたたび奇兵隊をはじめとする諸隊に蜂起を促す。
しかし、内戦を避けようとする諸隊は求めに応じることはなく、「奇兵隊開闢総督」のしての高杉晋作の威光このときには全く通じなかった。
晋作は僅かな者とともに下関にて挙兵。
内戦が始まると奇兵隊や諸隊は晋作に呼応し始め、「俗論派」の送った鎮圧軍を撃退することになる。
これにより一枚岩になったと思われた晋作と奇兵隊だったが、そうではなかった。
勝に乗じて萩城下まで攻めようとする晋作に対し、奇兵隊軍監山県はひとまず兵を退げ、萩の様子を窺ってから攻めようという。
結局諸隊も山県の意見に賛同したため諸隊は山口に移動してしまう。
萩を囲むように諸隊は配置し、じわじわと政権交代を「俗論派」に迫る。
その結果「正義派」が復権し新しい政権を生み出すのである。政権交代で血を流した諸隊の発言力は強くなっていき、諸隊は会議所を設け、ここに幹部が集い連絡し、会議において物事を決めていくシステムを作った。
こうした庶民や下級武士からなる奇兵隊や諸隊が力をつけることにより、藩の政治にまで影響力を持つことは晋作をはじめ、上級武士たちにとっては面白くないことだった。
とくに晋作にしてみれば自分が作った奇兵隊だが、自由にコントロールできない状態であったことは不満だったようだ。
元々は晋作は政権交代・攘夷倒幕のための「軍事力」としての庶民の力であり、政治に参加させる気はなかったのである。
打開策として晋作は藩士からなる『干城隊』を組織し、軍事力の中核となし、干城隊によって諸隊をコントロールしようとする。
しかし、この策も実現はしなかった。
諸隊はそれほどまでに力をつけてきており、藩もその諸隊の力がなくして幕府に立ち向かえないことを知っていたため、高圧的には出来なかったのだ。
実際に第二次長州征伐の時には諸隊が前線にて奮戦することで、長州藩は維新の厚い扉を押し開いていくことになるのだから。
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2008年08月11日
吉田松陰 太平巳に久しきに当りて
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『太平巳に久しきに当りて』

吉田松陰一日一言
太平巳に久しきに当りて大事を興造せんとする時は、人心偸安必ず与せず。
平和な日々が長く続いている時代に大切なことを始めよとする際には、一般の人々は目の前の安楽を貪るだけで、絶対に協力などはしてくれない。
本当にその通りだと思う。
現実に社会は乱れ、政治も混沌としている中、国民が文句や不平を言うだけで何か行動をしようとする者はいない。
選挙があっても行こうとはせず、他人任せである。
だからトップに立つものは断じて行うべきである。
吉田松陰 今日の一言
『太平巳に久しきに当りて』
吉田松陰一日一言
太平巳に久しきに当りて大事を興造せんとする時は、人心偸安必ず与せず。
平和な日々が長く続いている時代に大切なことを始めよとする際には、一般の人々は目の前の安楽を貪るだけで、絶対に協力などはしてくれない。
本当にその通りだと思う。
現実に社会は乱れ、政治も混沌としている中、国民が文句や不平を言うだけで何か行動をしようとする者はいない。
選挙があっても行こうとはせず、他人任せである。
だからトップに立つものは断じて行うべきである。
タグ :吉田松陰
2008年08月11日
篤姫 宮崎あおい 第32回
篤姫 宮崎あおい 第32回 『桜田門外の変』
ついに幾島との別れの日がやってきた。
天璋院は別れのあいさつなどいらぬと強がりながら、とめどない涙を流すのだった。
その頃、幕府では蒸気船咸臨丸をアメリカへと航海させる準備を進めていた。
将軍 徳川家茂と天璋院は、船の乗組員の勝海舟と面会する。勝の飾らぬ人となりは天璋院に鮮やかな印象を残す。

一方、薩摩では激しい弾圧を行う井伊直弼を打倒しようと、有馬新七ら若者たちが立ち上がろうとしていた。
冷静だった大久保利通でさえそれに賛同し、小松帯刀も止められない。
ついに、決起となった日、彼らの元に藩主 島津久光からの書状が届く。
“誠忠士の面々へ” と書かれた藩主の直々の言葉に感極まった彼らは、すんでの所で決起を思いとどまる。
天璋院は井伊を問いただすため、二人きりでの面会を申し込む。自分は国を守りたい一心で、己の役割を果たしただけと語る井伊。
その覚悟を目の当たりにし、深い感銘を受けた天璋院は、これからは井伊ともっと語り合いたいと願う。
しかし、迎えた3月3日、天璋院は桜田門外で起こった恐ろしい出来事を、滝山から伝えられることになるのだった。
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ついに幾島との別れの日がやってきた。
天璋院は別れのあいさつなどいらぬと強がりながら、とめどない涙を流すのだった。
その頃、幕府では蒸気船咸臨丸をアメリカへと航海させる準備を進めていた。
将軍 徳川家茂と天璋院は、船の乗組員の勝海舟と面会する。勝の飾らぬ人となりは天璋院に鮮やかな印象を残す。

一方、薩摩では激しい弾圧を行う井伊直弼を打倒しようと、有馬新七ら若者たちが立ち上がろうとしていた。
冷静だった大久保利通でさえそれに賛同し、小松帯刀も止められない。
ついに、決起となった日、彼らの元に藩主 島津久光からの書状が届く。
“誠忠士の面々へ” と書かれた藩主の直々の言葉に感極まった彼らは、すんでの所で決起を思いとどまる。
天璋院は井伊を問いただすため、二人きりでの面会を申し込む。自分は国を守りたい一心で、己の役割を果たしただけと語る井伊。
その覚悟を目の当たりにし、深い感銘を受けた天璋院は、これからは井伊ともっと語り合いたいと願う。
しかし、迎えた3月3日、天璋院は桜田門外で起こった恐ろしい出来事を、滝山から伝えられることになるのだった。
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2008年08月10日
吉田松陰 神州必ず滅びざるなり
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『神州必ず滅びざるなり』

吉田松陰一日一言
挫するなかれ、折くるなかれ。
神州必ず滅びざるなり。
途中で挫けてはいけない。
志を変えてはいけない。日本は絶対に滅びないから。
吉田松陰 今日の一言
『神州必ず滅びざるなり』
吉田松陰一日一言
挫するなかれ、折くるなかれ。
神州必ず滅びざるなり。
途中で挫けてはいけない。
志を変えてはいけない。日本は絶対に滅びないから。
タグ :吉田松陰
2008年08月09日
吉田松陰 復た能く為す
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『復た能く為す』

吉田松陰一日一言
後世の人、知慮短浅、一旦敗衂すれば志気頓に沮喪し、復た能く為すことなし。
後の世である今の人は、先々のことや細かなことまでよく考える知恵が足りず、浅い。
一回、戦いに負けると、志、やる気はすぐにくじけてなくなり、再びやろうという気持ちになることはない。
吉田松陰 今日の一言
『復た能く為す』
吉田松陰一日一言
後世の人、知慮短浅、一旦敗衂すれば志気頓に沮喪し、復た能く為すことなし。
後の世である今の人は、先々のことや細かなことまでよく考える知恵が足りず、浅い。
一回、戦いに負けると、志、やる気はすぐにくじけてなくなり、再びやろうという気持ちになることはない。
タグ :吉田松陰
2008年08月08日
吉田松陰 今大業を創めんとならば
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『今大業を創めんとならば』

吉田松陰一日一言
按するに、小人必ず才あり。
其の才用うべし、其の悪赦すべからず。
今大業を創めんとならば、君子小人となく皆其の才を用うべし、其の不善を露わさざれば可なり。
思うに、徳のないつまらない人でも必ず才能はもっている。
その才能を活用するべきである。しかし、そのつまらない低俗な気持ちをゆるしてはいけない。
今、大きな事業をはじめようとするなら、心ある立派な人であれ小人であれ、その人の全ての才能を活用すべきである。
よこしまな心をあらわさなければよしとすべきである。
吉田松陰 今日の一言
『今大業を創めんとならば』
吉田松陰一日一言
按するに、小人必ず才あり。
其の才用うべし、其の悪赦すべからず。
今大業を創めんとならば、君子小人となく皆其の才を用うべし、其の不善を露わさざれば可なり。
思うに、徳のないつまらない人でも必ず才能はもっている。
その才能を活用するべきである。しかし、そのつまらない低俗な気持ちをゆるしてはいけない。
今、大きな事業をはじめようとするなら、心ある立派な人であれ小人であれ、その人の全ての才能を活用すべきである。
よこしまな心をあらわさなければよしとすべきである。
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2008年08月08日
伊東甲子太郎 高台院党
伊東甲子太郎 高台院党を創設した男だ。
元の名は、鈴木大蔵。
1835年(天保6年)常陸・志筑藩の私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男として生まれている。
幼少期の詳しい史料は残っていない。
父の塾で学んだのち水戸に出、金子健四郎の道場に入門し、ここで神道無念流剣術と水戸学を学び、勤王思想に傾倒していく。
伊東の基本理念はこの頃に出来上がっていたようである。
水戸にいる間に武田耕雲斎の知己を得て、国事に尽くさんと金子と共に江戸に出るが、徳川斉昭の蟄居に伴い金子らも蟄居となると伊東は北辰一刀流剣術伊東道場に入門する。

その後、道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、一人娘のうめの婿となり、伊東姓を名乗り伊東大蔵と称するようになった。
時代が時代であり、伊東も他の志士達同様に攘夷について語り合う日々を過ごしていたようだ。
特に水戸学を学んだ伊東にとっては生温いやり方では日本は守れないと感じていたのだろう。
桜田門外の変、坂下門外の変など水戸の同志たちが志の元散っていく姿を見て血が踊るような気持ちだったのかもしれない。
攘夷の急先鋒である長州藩は8・18の政変により京での地位を失っており、地方の攘夷志士達は益々危機感を感じていた。
そんな中、1864年(元治元年)同門の藤堂平助が新撰組隊士募集のため江戸に来ていた。
伊東は藤堂の誘いのもと、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎、中西昇らと京都へ上る。
この上洛の年が元治元年甲子だったので、伊東甲子太郎と名を改めたのだ。
新選組では、文武両道、伊東道場道場主ということで、参謀兼文学師範に抜擢される。
ここで疑問が生じる。
なぜ伊東は新撰組に入隊したのか?
攘夷論者であり、水戸学を学んだ伊東が、佐幕派の新撰組に入るというのは解せない。
これには一つの思惑があったようである。
伊東は新撰組の参謀の地位を利用して、組を手土産に薩長に取り入るつもりだったらしいのだ。
伊東は藤堂を使って山南敬助を利用しようとする。
しかし山南の感情の起伏が激しいことと、山南の新撰組での地位が危ういのを見て断念。
山南は孤立していき自害してしまう。
近藤勇は当初は伊東の入隊を歓迎したようだが、土方歳三は並ならぬ策士と見て警戒したようである。
その後の新撰組は近藤・土方の独裁上となっていき組を揺るがすことは困難になった。
1867年(慶応3年)伊東甲子太郎は薩摩の動向を探るという名目と、孝明天皇からの御陵警備任務拝命により新撰組を離脱する。
伊東は「薩摩の動向を調べるために隊を離れる。逐一報告をする」と言って近藤に持ちかける。
入隊以来伊東を調べてきた土方はこれ以上危険分子を隊の中に置くことを嫌い承諾する。
伊東は三条城安寺、五条東詰善立寺、そして東山高台寺に屯所を移し、御陵衛士(高台寺党)をあらたに結成。
新選組結盟以来の隊士で八番隊組長の藤堂平助も御陵衛士に参加する。
その後、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らは御陵衛士に加わりたいと願うが、伊東は拒絶した。
伊東は四通の建白書を朝廷に提出し、中でも大政奉還の行われた直後の10月に出された3通目の建白書では、公家中心の新政府を作り、一和同心(国民が一つになり、議論を尽くして決めること。挙国一致を唱え、幕府側の人間も参加させるべきとしているのは坂本龍馬に近い考え方)、実務には広く天下から人材を集めること、畿内(近畿地方)五ヶ国を新政府の直轄領にすること、国民皆兵などを提唱している。
また、一通目の建白書では神戸開港反対を唱えていたが、三通目では「大開国、大強国」を作ることを唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している)。また、殺された時に懐に五通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど三通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。
当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の吉井幸輔が越前の中根雪江にこの建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている。
近藤は自分の妾宅に伊東を呼び出して酔わせ、帰宅途中の油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に暗殺させた(油小路事件)。
本光寺の門前にて「奸賊ばら」といい倒れたといわれている。
伊東甲子太郎 享年33歳。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、北辰一刀流剣術の道場主であった伊東の剣の腕を、近藤や土方が警戒したからとも言われている。
いかにも土方らしい堅実なやり方である。
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元の名は、鈴木大蔵。
1835年(天保6年)常陸・志筑藩の私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男として生まれている。
幼少期の詳しい史料は残っていない。
父の塾で学んだのち水戸に出、金子健四郎の道場に入門し、ここで神道無念流剣術と水戸学を学び、勤王思想に傾倒していく。
伊東の基本理念はこの頃に出来上がっていたようである。
水戸にいる間に武田耕雲斎の知己を得て、国事に尽くさんと金子と共に江戸に出るが、徳川斉昭の蟄居に伴い金子らも蟄居となると伊東は北辰一刀流剣術伊東道場に入門する。

その後、道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、一人娘のうめの婿となり、伊東姓を名乗り伊東大蔵と称するようになった。
時代が時代であり、伊東も他の志士達同様に攘夷について語り合う日々を過ごしていたようだ。
特に水戸学を学んだ伊東にとっては生温いやり方では日本は守れないと感じていたのだろう。
桜田門外の変、坂下門外の変など水戸の同志たちが志の元散っていく姿を見て血が踊るような気持ちだったのかもしれない。
攘夷の急先鋒である長州藩は8・18の政変により京での地位を失っており、地方の攘夷志士達は益々危機感を感じていた。
そんな中、1864年(元治元年)同門の藤堂平助が新撰組隊士募集のため江戸に来ていた。
伊東は藤堂の誘いのもと、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎、中西昇らと京都へ上る。
この上洛の年が元治元年甲子だったので、伊東甲子太郎と名を改めたのだ。
新選組では、文武両道、伊東道場道場主ということで、参謀兼文学師範に抜擢される。
ここで疑問が生じる。
なぜ伊東は新撰組に入隊したのか?
攘夷論者であり、水戸学を学んだ伊東が、佐幕派の新撰組に入るというのは解せない。
これには一つの思惑があったようである。
伊東は新撰組の参謀の地位を利用して、組を手土産に薩長に取り入るつもりだったらしいのだ。
伊東は藤堂を使って山南敬助を利用しようとする。
しかし山南の感情の起伏が激しいことと、山南の新撰組での地位が危ういのを見て断念。
山南は孤立していき自害してしまう。
近藤勇は当初は伊東の入隊を歓迎したようだが、土方歳三は並ならぬ策士と見て警戒したようである。
その後の新撰組は近藤・土方の独裁上となっていき組を揺るがすことは困難になった。
1867年(慶応3年)伊東甲子太郎は薩摩の動向を探るという名目と、孝明天皇からの御陵警備任務拝命により新撰組を離脱する。
伊東は「薩摩の動向を調べるために隊を離れる。逐一報告をする」と言って近藤に持ちかける。
入隊以来伊東を調べてきた土方はこれ以上危険分子を隊の中に置くことを嫌い承諾する。
伊東は三条城安寺、五条東詰善立寺、そして東山高台寺に屯所を移し、御陵衛士(高台寺党)をあらたに結成。
新選組結盟以来の隊士で八番隊組長の藤堂平助も御陵衛士に参加する。
その後、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らは御陵衛士に加わりたいと願うが、伊東は拒絶した。
伊東は四通の建白書を朝廷に提出し、中でも大政奉還の行われた直後の10月に出された3通目の建白書では、公家中心の新政府を作り、一和同心(国民が一つになり、議論を尽くして決めること。挙国一致を唱え、幕府側の人間も参加させるべきとしているのは坂本龍馬に近い考え方)、実務には広く天下から人材を集めること、畿内(近畿地方)五ヶ国を新政府の直轄領にすること、国民皆兵などを提唱している。
また、一通目の建白書では神戸開港反対を唱えていたが、三通目では「大開国、大強国」を作ることを唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している)。また、殺された時に懐に五通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど三通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。
当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の吉井幸輔が越前の中根雪江にこの建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている。
近藤は自分の妾宅に伊東を呼び出して酔わせ、帰宅途中の油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に暗殺させた(油小路事件)。
本光寺の門前にて「奸賊ばら」といい倒れたといわれている。
伊東甲子太郎 享年33歳。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、北辰一刀流剣術の道場主であった伊東の剣の腕を、近藤や土方が警戒したからとも言われている。
いかにも土方らしい堅実なやり方である。
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2008年08月07日
高杉晋作 開国に転じる時
1863年(文久3年)8・18の政変で長州藩は京都での地位を失う。
翌1864年(元治元年)4カ国の連合艦隊が長州を攻撃、馬関は戦火に包まれる。
高杉晋作をはじめ、奇兵隊などが決死で戦うが、文化の違いは明らかで、遂には外国の上陸を許すことになる。
完全なる敗北を前に長州は和議を申し込む。

その使者として選ばれたのは横浜のイギリス領事館などを焼き討ちした高杉晋作であった。
あの過激な晋作が・・・普通の人なら疑問に思うだろう。
しかし晋作の考えは攘夷一辺倒ではなかったのだ。
結果、晋作はあっけなく長州藩が「攘夷」を捨て外国に協力することを約束するのだ。
晋作の中ではもうそろそろ思想を「攘夷」から「開国」に変えさせる時がきたと判断したのだろう。
直接戦うことで夷敵の実力を体感した長州藩。
その違いは何なのかを皆が分かったであろうと思っていたに違いない。
晋作の思惑とは逆に、「攘夷」の志士達は納得できなかったようである。
高杉晋作のこの交渉は夷敵に魂を売った行為と見られてしまったのだ。
一夜にして「攘夷」から「開国」などということは時代を読めない者たちには理解などできるはずもない。
後年伊藤博文が語ったところでは、同じ松下村塾の同志、山田顕義や品川弥二郎までもが晋作等、講和派の命を狙っていたらしい。
その後は高杉晋作たちは身の危険を感じ行方を晦ます。
その間に長州藩は幕府恭順派の「俗論派」が政権を握り、晋作ら「正義派」は弾圧を逃れていく。
弾圧を逃れていた晋作たちだが、どうせ死ぬなら志を遂げて死にたいと思うようになり、下関にて決起する。
内戦のすえ「正義派」は再び政権を勝ち取ることになる。
晋作たちは外国に下関港を開港し、外国との貿易を通じて国力を増強し、軍備を整えようとした。
晋作は諸部隊に対し、
赤間関(下関)も我断然、国体を愧じしめさるよう開港すべし。
しからざれば幕薩(幕府と薩摩)は申すに及ばず、ついには外夷の妖術に陥るならん。
五大州へ防長の腹をおしだして大細工をし出さねば、大割拠は成就いたさずならん。
はっきりと「開国」の方針を打ち出して入る。
この長州藩の豹変ぶりに戸惑った者たちがいる。
その一人に肥後の脱藩者 河上彦斎がいた。
河上は肥後の国学者林桜園に師事し、その影響を受けていた。
日本中で孤立しながらも「攘夷」を貫く長州藩に自分の夢を託し、脱藩して長州に来ていたのである。
長州に来た河上は晋作と意気投合、交誼を深めていく。
ところが4カ国艦隊に敗れ、講和を結んだ晋作に河上は憤慨し、裏切られた思いをいだく、そして
「お前のような輩と事を共にするよりは、帰国して獄に繋がれたほうがましだ」といい長州を後にする。
河上彦斎は肥後にて3年間獄に繋がれ、釈放後も頑なに「攘夷」を崩さなかったため、新政府により処刑されてしまう。
言い方は悪いが高杉晋作たちの「攘夷」は倒幕の為に作られたスローガンのようなものっだたのかも知れない。
「攘夷」のその奥にある真の意味を末端の志士達は理解できなかったのだろう。
だから、坂本龍馬の暗殺や大久保利通の暗殺など、時代の先を見ることの出来る英雄たちを思慮の浅さから斬ってしまったのだろう。
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翌1864年(元治元年)4カ国の連合艦隊が長州を攻撃、馬関は戦火に包まれる。
高杉晋作をはじめ、奇兵隊などが決死で戦うが、文化の違いは明らかで、遂には外国の上陸を許すことになる。
完全なる敗北を前に長州は和議を申し込む。

その使者として選ばれたのは横浜のイギリス領事館などを焼き討ちした高杉晋作であった。
あの過激な晋作が・・・普通の人なら疑問に思うだろう。
しかし晋作の考えは攘夷一辺倒ではなかったのだ。
結果、晋作はあっけなく長州藩が「攘夷」を捨て外国に協力することを約束するのだ。
晋作の中ではもうそろそろ思想を「攘夷」から「開国」に変えさせる時がきたと判断したのだろう。
直接戦うことで夷敵の実力を体感した長州藩。
その違いは何なのかを皆が分かったであろうと思っていたに違いない。
晋作の思惑とは逆に、「攘夷」の志士達は納得できなかったようである。
高杉晋作のこの交渉は夷敵に魂を売った行為と見られてしまったのだ。
一夜にして「攘夷」から「開国」などということは時代を読めない者たちには理解などできるはずもない。
後年伊藤博文が語ったところでは、同じ松下村塾の同志、山田顕義や品川弥二郎までもが晋作等、講和派の命を狙っていたらしい。
その後は高杉晋作たちは身の危険を感じ行方を晦ます。
その間に長州藩は幕府恭順派の「俗論派」が政権を握り、晋作ら「正義派」は弾圧を逃れていく。
弾圧を逃れていた晋作たちだが、どうせ死ぬなら志を遂げて死にたいと思うようになり、下関にて決起する。
内戦のすえ「正義派」は再び政権を勝ち取ることになる。
晋作たちは外国に下関港を開港し、外国との貿易を通じて国力を増強し、軍備を整えようとした。
晋作は諸部隊に対し、
赤間関(下関)も我断然、国体を愧じしめさるよう開港すべし。
しからざれば幕薩(幕府と薩摩)は申すに及ばず、ついには外夷の妖術に陥るならん。
五大州へ防長の腹をおしだして大細工をし出さねば、大割拠は成就いたさずならん。
はっきりと「開国」の方針を打ち出して入る。
この長州藩の豹変ぶりに戸惑った者たちがいる。
その一人に肥後の脱藩者 河上彦斎がいた。
河上は肥後の国学者林桜園に師事し、その影響を受けていた。
日本中で孤立しながらも「攘夷」を貫く長州藩に自分の夢を託し、脱藩して長州に来ていたのである。
長州に来た河上は晋作と意気投合、交誼を深めていく。
ところが4カ国艦隊に敗れ、講和を結んだ晋作に河上は憤慨し、裏切られた思いをいだく、そして
「お前のような輩と事を共にするよりは、帰国して獄に繋がれたほうがましだ」といい長州を後にする。
河上彦斎は肥後にて3年間獄に繋がれ、釈放後も頑なに「攘夷」を崩さなかったため、新政府により処刑されてしまう。
言い方は悪いが高杉晋作たちの「攘夷」は倒幕の為に作られたスローガンのようなものっだたのかも知れない。
「攘夷」のその奥にある真の意味を末端の志士達は理解できなかったのだろう。
だから、坂本龍馬の暗殺や大久保利通の暗殺など、時代の先を見ることの出来る英雄たちを思慮の浅さから斬ってしまったのだろう。
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2008年08月07日
吉田松陰 君子の心
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『君子の心』

吉田松陰一日一言
人巳に過ちあれば、吾れ従って之れを咎む、過ちてすなわち之れを悔ゆれば、吾れ従って之れを喜ぶ。
是れ君子の心なり。
人が悪いことをすれば、私はそのことをとりたてて、非難する。
しかし、これを反省し、改めれば、私はこれを喜ぶ。
これが心ある立派な人の心である。
吉田松陰 今日の一言
『君子の心』
吉田松陰一日一言
人巳に過ちあれば、吾れ従って之れを咎む、過ちてすなわち之れを悔ゆれば、吾れ従って之れを喜ぶ。
是れ君子の心なり。
人が悪いことをすれば、私はそのことをとりたてて、非難する。
しかし、これを反省し、改めれば、私はこれを喜ぶ。
これが心ある立派な人の心である。
タグ :吉田松陰
2008年08月06日
肥後藩
2008年08月06日
実学党の分裂
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航する。
肥後藩主 細川斉護は幕府から浦賀警備を命じられる。
斉護は長岡監物に警備隊長を命じたのだ。

江戸に赴いた長岡は江戸において更なる見識を深めていく、水戸藩主の徳川斉昭をはじめ藤田東湖などの水戸藩士を中心に、吉田松陰、西郷隆盛らと盛んに交流した。
特に徳川斉昭とは海防の件もあり話をする機会が多く、長岡は斉昭に心酔していった。
横井小楠も斉昭の登用などを藤田東湖に書状をおくり祝し、肥後藩同志一同、水戸藩に協力した旨を伝えている。
しかし1855年(安政2年)その徳川斉昭が幕府に対しアメリカとの和議を勧めたという話を聞くと、小楠は表向き攘夷を唱えながら裏で和議を勧める斉昭やその家臣を激しく批判し始めた。
この水戸藩に対する激しい批判は、実学党の同志からかならずしも理解されなかった。
長岡は1854年(安政元年)に警備の任を解かれ肥後に戻っている。
その溝は長岡と小楠の考え方にも違いを見せ始める。
二人は『大学』の三綱領すなわち
「明徳を明らかにする」
「民を新たにする」
「至然に止まる」のうち前2者のどちらを優先するかで論争を始めた。
この論争は互いの弟子たちをも巻き込んで行き、長岡は「明徳を明らかにする」、小楠は「民を新たにする」と主張し合い、双方譲らず最後には小楠は長岡に絶交を申し入れるまでに至ってしまう。
この論争は実学党が分裂する契機になる。
小楠は先ほども書いたように、ペリー来航後の水戸藩の行動に深く失望し、さらには水戸学を激しく批判した。
今後は私心を去って意を誠にし公明正大な経綸を行うことを理念を全国の武士たちに広めるべきだとし、全国的な視野から日本の政治を考えるといった方向になっており、藩という枠組から抜け出した考えだった。
一方長岡は、何より自己修練によって「明徳を明らかにして」藩主の為に藩の職務を遂行し、肥後藩自体を高めるというものだった。
この考え方の違いにより実学党は分裂、ますますその力を弱めていってしまう。
そして1859年(安政6年)長岡監物が病死してしまう。
このとき福井にいた小楠はこの報を受け落涙し、意見は違えたが今となっては懐かしいと下津休也、萩昌国に手紙を送っている。
幕末という急激な時代は肥後藩士同志でありながらも対立せざるを得ない厳しい政治状況を作っていたのである。
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斉護は長岡監物に警備隊長を命じたのだ。

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特に徳川斉昭とは海防の件もあり話をする機会が多く、長岡は斉昭に心酔していった。
横井小楠も斉昭の登用などを藤田東湖に書状をおくり祝し、肥後藩同志一同、水戸藩に協力した旨を伝えている。
しかし1855年(安政2年)その徳川斉昭が幕府に対しアメリカとの和議を勧めたという話を聞くと、小楠は表向き攘夷を唱えながら裏で和議を勧める斉昭やその家臣を激しく批判し始めた。
この水戸藩に対する激しい批判は、実学党の同志からかならずしも理解されなかった。
長岡は1854年(安政元年)に警備の任を解かれ肥後に戻っている。
その溝は長岡と小楠の考え方にも違いを見せ始める。
二人は『大学』の三綱領すなわち
「明徳を明らかにする」
「民を新たにする」
「至然に止まる」のうち前2者のどちらを優先するかで論争を始めた。
この論争は互いの弟子たちをも巻き込んで行き、長岡は「明徳を明らかにする」、小楠は「民を新たにする」と主張し合い、双方譲らず最後には小楠は長岡に絶交を申し入れるまでに至ってしまう。
この論争は実学党が分裂する契機になる。
小楠は先ほども書いたように、ペリー来航後の水戸藩の行動に深く失望し、さらには水戸学を激しく批判した。
今後は私心を去って意を誠にし公明正大な経綸を行うことを理念を全国の武士たちに広めるべきだとし、全国的な視野から日本の政治を考えるといった方向になっており、藩という枠組から抜け出した考えだった。
一方長岡は、何より自己修練によって「明徳を明らかにして」藩主の為に藩の職務を遂行し、肥後藩自体を高めるというものだった。
この考え方の違いにより実学党は分裂、ますますその力を弱めていってしまう。
そして1859年(安政6年)長岡監物が病死してしまう。
このとき福井にいた小楠はこの報を受け落涙し、意見は違えたが今となっては懐かしいと下津休也、萩昌国に手紙を送っている。
幕末という急激な時代は肥後藩士同志でありながらも対立せざるを得ない厳しい政治状況を作っていたのである。
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2008年08月06日
吉田松陰 心を養う
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吉田松陰 今日の一言
『心を養う』

吉田松陰一日一言
孟子曰く、心を養うは寡欲より善きはなしと。
周子曰く、これを寡くして以って無に至ると。
孟・周の言、学者に於いても尤も切なりと為す。
孟子は「心を養うには、欲を少なくするのが最もいい」という。
また、周子は「欲を少なくして、最後はなくしてしまうのがいい」という。
孟子・周子の言は、学問をする人間にとってこそ、最も切実な教えである。
吉田松陰 今日の一言
『心を養う』
吉田松陰一日一言
孟子曰く、心を養うは寡欲より善きはなしと。
周子曰く、これを寡くして以って無に至ると。
孟・周の言、学者に於いても尤も切なりと為す。
孟子は「心を養うには、欲を少なくするのが最もいい」という。
また、周子は「欲を少なくして、最後はなくしてしまうのがいい」という。
孟子・周子の言は、学問をする人間にとってこそ、最も切実な教えである。
2008年08月05日
吉田松陰 無用の言を言わざる
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吉田松陰 今日の一言
『無用の言を言わざる』

吉田松陰一日一言
吾が性多言なり、多言は敬を失し誠を散ず、故に無用の言を言わざるを第一戒と為す。
私はどうもおしゃべりな性格である。
多言であれば敬いの気持ちを失い、まごころが散り失せてしまいがちになる。
だから、必要のない言葉は口にしない、ということを第一の戒めとしている。
吉田松陰 今日の一言
『無用の言を言わざる』
吉田松陰一日一言
吾が性多言なり、多言は敬を失し誠を散ず、故に無用の言を言わざるを第一戒と為す。
私はどうもおしゃべりな性格である。
多言であれば敬いの気持ちを失い、まごころが散り失せてしまいがちになる。
だから、必要のない言葉は口にしない、ということを第一の戒めとしている。
2008年08月05日
篤姫 宮崎あおい 第31回
篤姫 宮崎あおい 第31回 『さらば幾島』
井伊直弼による一橋派への取り締まりは、いっそう激しさを増していた。
将軍 徳川家茂は天璋院に、井伊のしていることが正しいのか間違っているのか分からないとこぼす。
母として息子を元気づける天璋院を、幾島はほほえましく思いつつ、少し寂しげに見つめていた。

弾圧の嵐が吹き荒れる中、天璋院の母親代わりとして将軍家への輿入れに力を尽くしてくれた村岡にも魔の手が迫っていた。
天璋院は村岡を救ってくれるよう家茂に頼もうとするが、私的な理由で将軍に願い事などしては井伊の思うつぼであり、家茂の立場も危うくなると滝山にいさめられてしまう。
村岡への取り調べの日が迫る中、天璋院は幾島にあることを命ずる。
幾島は単身、囚われの村岡の元へ向かった。
そして取り調べの日、村岡は白い衣を身にまとって現れる。それは天璋院が婚礼の時に着た衣装だった。
その凛とした姿と天璋院の威光に役人たちは恐れをなし、村岡は厳しい取り調べを切り抜ける。
無事役目を果たした幾島は、天璋院に暇をいただきたいと告げる。
そして、自分の教えることは既に無く、己の勤めは終わったのだと語りはじめるのだった。
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井伊直弼による一橋派への取り締まりは、いっそう激しさを増していた。
将軍 徳川家茂は天璋院に、井伊のしていることが正しいのか間違っているのか分からないとこぼす。
母として息子を元気づける天璋院を、幾島はほほえましく思いつつ、少し寂しげに見つめていた。

弾圧の嵐が吹き荒れる中、天璋院の母親代わりとして将軍家への輿入れに力を尽くしてくれた村岡にも魔の手が迫っていた。
天璋院は村岡を救ってくれるよう家茂に頼もうとするが、私的な理由で将軍に願い事などしては井伊の思うつぼであり、家茂の立場も危うくなると滝山にいさめられてしまう。
村岡への取り調べの日が迫る中、天璋院は幾島にあることを命ずる。
幾島は単身、囚われの村岡の元へ向かった。
そして取り調べの日、村岡は白い衣を身にまとって現れる。それは天璋院が婚礼の時に着た衣装だった。
その凛とした姿と天璋院の威光に役人たちは恐れをなし、村岡は厳しい取り調べを切り抜ける。
無事役目を果たした幾島は、天璋院に暇をいただきたいと告げる。
そして、自分の教えることは既に無く、己の勤めは終わったのだと語りはじめるのだった。
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