2008年11月22日
河田小龍 開国の必要性を説いた絵師
坂本龍馬に開国の必要性を説いた男、河田小龍。
河田小龍は1824年、高知城下の土生玉助の長男として誕生しました。
小龍の父は土生家の養子であったので小龍は、祖父・金衛門の養子となり河田姓を名乗るようになるのです。
小龍は幼い頃から絵がとても上手で、13歳の頃から南宋画の画家・島本蘭渓に弟子入りして修行を積み、この時期に、雅号(筆名)を「小龍」としたそうです。
更に小龍は絵だけでなく学問に対しても熱心で、藩儒・岡本寧浦の下で儒学などを学んでいました。

そんな河田小龍に目を付けていたのが、吉田東洋です。
東洋は当時浦戸の船奉行であり、小龍の父親の上司という立場にあった。更に岡本寧浦とも交友関係であったため、小龍の絵の才能を見抜いていたようです。
東洋はある日、「京都に行って絵の勉強をしてはどうか」と提案し、小龍は京都の狩野派9代目・狩野永岳に弟子入りしました。ここでも才能を認められた小龍は、京都二条城の襖絵修復に抜擢されるなど、大活躍をするのだ。
京都で修行していた小龍は、長崎へと向かいます。
当時の長崎は日本で唯一外国との門を開けている場所で時代の最先端の場所だったのです。
河田小龍は長崎の地で蘭学などを学びながら異国情緒あふれる数々のものに触れ、また外国の目覚しい発展ぶりを知り、日本も開国し、早急に国際化しなければならないと痛感しました。
高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちに絵や学問を教えるのです。
この墨雲洞は、次第に世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場となっていき、多くの志士がその門を叩きました。
塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などもいたようです。
そんな小龍に運命を変える出会いが待っていました。
それはジョン万次郎との出会いです。
吉田東洋からジョン万次郎の取り調べを行うようにという命を受けるのです。
当時蘭学を学んでいた小龍であれば少しは英語が理解できると思ったのでしょう。
小龍は万次郎と寝食を共にしながら、徐々に理解を深めていくのです。
そして、万次郎から聞くアメリカの情報は小龍にとっては画期的な話ばかりで、このとき改めて開国への思いを強くしたのは間違いはないだろう。
この時、万次郎から聞き取った内容をまとめたものが「漂巽紀略」となる。
1853年()浦賀にペリーが来航する。
日本全土に激震を与えたこのペリーの来航は、当然ながら土佐の若者達の心をも刺激した。
開国を求めるアメリカに対し、小龍は 「現時点で彼らと戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを説く。
そんなときに坂本龍馬が小龍を尋ねてきたのだ。
小龍は開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を龍馬に話すのです。
この話に感化された龍馬は、その後しばらくして脱藩をすることになる。
脱藩した龍馬を小龍はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
日本が変わらなければならないと分かっていても行動を起せなかった自分と、変えるために何が出来るのかで行動を起した龍馬。
小龍には龍馬が羨ましく感じたのではないだろうか。
その後、小龍は土佐藩士の薩摩派遣に同行し大砲鋳造の技術視察などを行ったり、自ら製塩事業や鉱山事業に手を出したりします。しかし、いずれも失敗。居を転々とし貧しい生活を強いられました。しかし晩年は、京都の琵琶湖疎水工事に立ち会い、記録図誌の制作を行ったほか、内国勧業博覧会などに自らの絵を出品するなど再び画家としての活動を行う。
そして1898年 75歳にて生涯を閉じました。
龍馬に脱藩の決意をさせた河田小龍。
自身の想いとは別に、行動を起せない自身にジレンマを感じていたのかもしれない。
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河田小龍は1824年、高知城下の土生玉助の長男として誕生しました。
小龍の父は土生家の養子であったので小龍は、祖父・金衛門の養子となり河田姓を名乗るようになるのです。
小龍は幼い頃から絵がとても上手で、13歳の頃から南宋画の画家・島本蘭渓に弟子入りして修行を積み、この時期に、雅号(筆名)を「小龍」としたそうです。
更に小龍は絵だけでなく学問に対しても熱心で、藩儒・岡本寧浦の下で儒学などを学んでいました。

そんな河田小龍に目を付けていたのが、吉田東洋です。
東洋は当時浦戸の船奉行であり、小龍の父親の上司という立場にあった。更に岡本寧浦とも交友関係であったため、小龍の絵の才能を見抜いていたようです。
東洋はある日、「京都に行って絵の勉強をしてはどうか」と提案し、小龍は京都の狩野派9代目・狩野永岳に弟子入りしました。ここでも才能を認められた小龍は、京都二条城の襖絵修復に抜擢されるなど、大活躍をするのだ。
京都で修行していた小龍は、長崎へと向かいます。
当時の長崎は日本で唯一外国との門を開けている場所で時代の最先端の場所だったのです。
河田小龍は長崎の地で蘭学などを学びながら異国情緒あふれる数々のものに触れ、また外国の目覚しい発展ぶりを知り、日本も開国し、早急に国際化しなければならないと痛感しました。
高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちに絵や学問を教えるのです。
この墨雲洞は、次第に世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場となっていき、多くの志士がその門を叩きました。
塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などもいたようです。
そんな小龍に運命を変える出会いが待っていました。
それはジョン万次郎との出会いです。
吉田東洋からジョン万次郎の取り調べを行うようにという命を受けるのです。
当時蘭学を学んでいた小龍であれば少しは英語が理解できると思ったのでしょう。
小龍は万次郎と寝食を共にしながら、徐々に理解を深めていくのです。
そして、万次郎から聞くアメリカの情報は小龍にとっては画期的な話ばかりで、このとき改めて開国への思いを強くしたのは間違いはないだろう。
この時、万次郎から聞き取った内容をまとめたものが「漂巽紀略」となる。
1853年()浦賀にペリーが来航する。
日本全土に激震を与えたこのペリーの来航は、当然ながら土佐の若者達の心をも刺激した。
開国を求めるアメリカに対し、小龍は 「現時点で彼らと戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを説く。
そんなときに坂本龍馬が小龍を尋ねてきたのだ。
小龍は開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を龍馬に話すのです。
この話に感化された龍馬は、その後しばらくして脱藩をすることになる。
脱藩した龍馬を小龍はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
日本が変わらなければならないと分かっていても行動を起せなかった自分と、変えるために何が出来るのかで行動を起した龍馬。
小龍には龍馬が羨ましく感じたのではないだろうか。
その後、小龍は土佐藩士の薩摩派遣に同行し大砲鋳造の技術視察などを行ったり、自ら製塩事業や鉱山事業に手を出したりします。しかし、いずれも失敗。居を転々とし貧しい生活を強いられました。しかし晩年は、京都の琵琶湖疎水工事に立ち会い、記録図誌の制作を行ったほか、内国勧業博覧会などに自らの絵を出品するなど再び画家としての活動を行う。
そして1898年 75歳にて生涯を閉じました。
龍馬に脱藩の決意をさせた河田小龍。
自身の想いとは別に、行動を起せない自身にジレンマを感じていたのかもしれない。

2008年11月22日
吉田松陰 大丈夫の嫉妬私心ほど
吉田松陰 今日の一言
『大丈夫の嫉妬私心ほど』

吉田松陰一日一言
大丈夫の嫉妬私心ほど畏るべき夷敵はこれなく候。
立派な男子でもついおこしてしまう嫉妬心や、自分ひとりだけの利益をはかろうとする気持ちほど、恐れなければならない敵はありません。
『大丈夫の嫉妬私心ほど』
吉田松陰一日一言
大丈夫の嫉妬私心ほど畏るべき夷敵はこれなく候。
立派な男子でもついおこしてしまう嫉妬心や、自分ひとりだけの利益をはかろうとする気持ちほど、恐れなければならない敵はありません。
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2008年11月21日
吉田松陰 英雄男児忘るべからざる事
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『英雄男児忘るべからざる事』

吉田松陰一日一言
「人にして不仁なる、之れを疾むこと巳甚しければ、乱するなり」。
是の言、英雄男児忘るべからざる事。
「不仁、慈しみの心のない人を甚だしく憎むと、その人は必ず乱をおこす」。
この言葉、英雄たる男児は、忘れてはいけないことである。


吉田松陰 今日の一言
『英雄男児忘るべからざる事』
吉田松陰一日一言
「人にして不仁なる、之れを疾むこと巳甚しければ、乱するなり」。
是の言、英雄男児忘るべからざる事。
「不仁、慈しみの心のない人を甚だしく憎むと、その人は必ず乱をおこす」。
この言葉、英雄たる男児は、忘れてはいけないことである。
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2008年11月20日
吉田松陰 天下才なきに非ず
吉田松陰 今日の一言
『天下才なきに非ず』

吉田松陰一日一言
天下才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな。
世間に才能のある人がいないのではない。
それを用いる人がいないだけである。何とも悲しいことである。





人の上に立つ者の哲学 Price1,365 円
幕末裏面史 Price4,410 円
ツキの最強法則 Price1,890 円
『天下才なきに非ず』
吉田松陰一日一言
天下才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな。
世間に才能のある人がいないのではない。
それを用いる人がいないだけである。何とも悲しいことである。
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2008年11月19日
吉田松陰 肝要の心得
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吉田松陰 今日の一言
『肝要の心得』

吉田松陰一日一言
人の話を徒に聞かぬ事と、聞いた事見た事、皆書留め置く事、肝要の心得なり。
人の話をただぼっーとして聞かないこと、聞いたことや見たことを記録すること、これらは非常に大切な心得である。
勉学に勤しむ者、手に職をつけようと修行に勤しむ者、皆、この心得が大切であろう。






烈々たる日本人 Price879 円
エピソードでつづる吉田松陰 Price2,625 円
松風の人 Price1,680 円
生存からの離脱ー吉田松陰 Price1,365 円
吉田松陰 今日の一言
『肝要の心得』
吉田松陰一日一言
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人の話をただぼっーとして聞かないこと、聞いたことや見たことを記録すること、これらは非常に大切な心得である。
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2008年11月18日
吉田松陰 有の儘
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吉田松陰 今日の一言
『有の儘』

吉田松陰一日一言
人に交わる事は有の儘なることを貴ぶ。
人と交際する際には、あるがままの心で接することが大切である。

吉田松陰 今日の一言
『有の儘』
吉田松陰一日一言
人に交わる事は有の儘なることを貴ぶ。
人と交際する際には、あるがままの心で接することが大切である。
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2008年11月17日
吉田松陰 思うまいと思うても
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『思うまいと思うても』

吉田松陰一日一言
扠も扠も思うまいと思うても又思い、云うまいと云うても又云うものは国家天下の事なり。
いやどうも、考えまいとしてもまた考え、いうまいとしてもついついいってしまうのは、国家天下のことである。


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湯本温泉山村別館 と 別棟 温泉付き離れしぇふず
萩の御厨(みくりや)・高大
萩の宿・常茂恵
北門屋敷

吉田松陰 今日の一言
『思うまいと思うても』
吉田松陰一日一言
扠も扠も思うまいと思うても又思い、云うまいと云うても又云うものは国家天下の事なり。
いやどうも、考えまいとしてもまた考え、いうまいとしてもついついいってしまうのは、国家天下のことである。
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2008年11月17日
篤姫 宮崎あおい 第46回
篤姫 宮崎あおい 第46回 『慶喜救出』
天璋院と静寛院は大奥で寂しい正月を迎えていた。
二人の願いも空しく、大坂では将軍 徳川慶喜が薩長軍を討つ兵を挙げようとしていた。
西郷隆盛たちも幕府軍を迎え撃つ準備を京で整え、ついに戦いが始まる。
薩長軍は岩倉具視の準備した錦の御旗を戦場で掲げる。
天皇の敵となった幕府軍は総崩れとなり、慶喜は部下を捨て江戸へ逃げ帰ってしまう。慶喜は勝海舟に力を貸して欲しいと頼むが、頼るべきは天璋院だと言われ、しぶしぶ面会を申し込む。

慶喜が逃げ帰ったという知らせは、大奥を大きく揺るがしていた。慶喜の首を差し出せと言う本寿院の叫びに、沈黙を守る天璋院。
対面の席で、生き恥をさらすくらいなら死を選ぶと言う慶喜に、天璋院は生きるべきと告げる。
そして静寛院とともに慶喜助命の願いを書くことを決意する。驚く慶喜に、慶喜もまた自分の家族であると語る天璋院。天璋院は、亡くなった家定、家茂の分まで生きて欲しいと慶喜に伝える。
一方、京では西郷が江戸攻めの指揮をとりたいと岩倉に願い出ていた。その目は討幕の決意に満ちていた…。
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篤姫(完結編) Price998 円
【大河ドラマ 篤姫】 天璋院 篤姫 芋 25度 720ml(3) Price1,575 円
鹿児島限定さつまおごじょ 篤姫(あつひめ)25度720ml Price1,585 円
指宿酒造 【芋焼酎】 今和泉 篤姫 720ml 25度 Price1,428 円






S 堀北真希写真集 Price2,940 円
Love,peace & green Price1,575 円
大奥列伝 Price1,470 円
天璋院篤姫のすべて Price2,940 円

天璋院と静寛院は大奥で寂しい正月を迎えていた。
二人の願いも空しく、大坂では将軍 徳川慶喜が薩長軍を討つ兵を挙げようとしていた。
西郷隆盛たちも幕府軍を迎え撃つ準備を京で整え、ついに戦いが始まる。
薩長軍は岩倉具視の準備した錦の御旗を戦場で掲げる。
天皇の敵となった幕府軍は総崩れとなり、慶喜は部下を捨て江戸へ逃げ帰ってしまう。慶喜は勝海舟に力を貸して欲しいと頼むが、頼るべきは天璋院だと言われ、しぶしぶ面会を申し込む。

慶喜が逃げ帰ったという知らせは、大奥を大きく揺るがしていた。慶喜の首を差し出せと言う本寿院の叫びに、沈黙を守る天璋院。
対面の席で、生き恥をさらすくらいなら死を選ぶと言う慶喜に、天璋院は生きるべきと告げる。
そして静寛院とともに慶喜助命の願いを書くことを決意する。驚く慶喜に、慶喜もまた自分の家族であると語る天璋院。天璋院は、亡くなった家定、家茂の分まで生きて欲しいと慶喜に伝える。
一方、京では西郷が江戸攻めの指揮をとりたいと岩倉に願い出ていた。その目は討幕の決意に満ちていた…。

篤姫(完結編) Price998 円
【大河ドラマ 篤姫】 天璋院 篤姫 芋 25度 720ml(3) Price1,575 円
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指宿酒造 【芋焼酎】 今和泉 篤姫 720ml 25度 Price1,428 円
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タグ :篤姫
2008年11月16日
薩摩藩士一覧
薩摩藩士一覧

○ 有馬新七---『勇む心をあとに』
○ 海江田信義--『過激な運動家』
○ 中村半次郎--『人斬りの真実』
○ 田中新兵衛--『謎の死・猿ヶ辻の変』
○ 五代友厚---『日本資本主義の開拓者』
○ 大久保利通--『維新の三傑』
『精忠組の結成』
『寺田屋の悲劇』
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城山観光ホテル
宮之城温泉 手塚ryokan
指宿温泉 ホテル秀水園
霧島温泉 さくらさくら温泉


○ 有馬新七---『勇む心をあとに』
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○ 中村半次郎--『人斬りの真実』
○ 田中新兵衛--『謎の死・猿ヶ辻の変』
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2008年11月16日
吉田松陰 学べば為すあり
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『学べば為すあり』

吉田松陰一日一言
君子の道に志すや、則ち学び則ち思う。
昼日之れを学び、暮夜之れを思う。思えば得るあり、学べば為すあり。
心ある立派な人が道に志を立てた際には、学問に励み、また、それを考えるものである。
昼間、学問に励み、夜考える。
考えれば得るものがあり、学べば行うべき事がある。


吉田松陰 今日の一言
『学べば為すあり』
吉田松陰一日一言
君子の道に志すや、則ち学び則ち思う。
昼日之れを学び、暮夜之れを思う。思えば得るあり、学べば為すあり。
心ある立派な人が道に志を立てた際には、学問に励み、また、それを考えるものである。
昼間、学問に励み、夜考える。
考えれば得るものがあり、学べば行うべき事がある。
タグ :吉田松陰
2008年11月15日
吉田松陰 志のみ、胆のみ
吉田松陰 今日の一言
『志のみ、胆のみ』

吉田松陰一日一言
君子に貴ぶ所のものは志のみ、胆のみ。
胆なく志なくんば、則ち区々の才知将た何の用か之を為さん。
心ある立派な人に大切なのはことは、志だけである。肝っ玉だけである。
志がなく、肝がすわっていなければ、わずかな才能や知識があっても、何の役に立つであろうか。役立ちはしない。


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『志のみ、胆のみ』
吉田松陰一日一言
君子に貴ぶ所のものは志のみ、胆のみ。
胆なく志なくんば、則ち区々の才知将た何の用か之を為さん。
心ある立派な人に大切なのはことは、志だけである。肝っ玉だけである。
志がなく、肝がすわっていなければ、わずかな才能や知識があっても、何の役に立つであろうか。役立ちはしない。
タグ :吉田松陰
2008年11月14日
勝海舟 咸臨丸で太平洋を横断
勝海舟と言えばやはり江戸城無血開城と咸臨丸で太平洋を横断であろう。
坂本龍馬との関係などもあるが、それは人的なものとして置いておいて、業績となると江戸城無血開城と咸臨丸で太平洋を横断は絶対にはずせないものだ。
そもそも何故、勝海舟が咸臨丸の艦長として遣米使節団に選ばれたのか。

そのきっかけを作ったのは、1856年(安政2年)長崎海軍伝習所であった。
伝習所時代の勝は「オランダ語を理解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切であったので皆信頼を寄せていた。それゆえどのような難題でも勝が中に入ってくれればオランダ人は納得した」とオランダ教官カッテンディケは言っている。
その一方で、 「勝は万事怜悧で、どんな具合にあしらえば我々を最も満足させ得るかを見抜いてしまった。」とも説明している。
しかしこの当時の軍艦奉行 木村摂津守は「この頃の勝は癇癪持ちで、終始不平不満をぶちまけていた」と言っている。
カッテンディケと木村の言うことは相反しているが、勝の平素の素行をみていると、木村の述べている勝評のほうが正確なのだろう。
カッテンディケが間違っている。というよりも勝がオランダ人の前では自を殺していたのだろう。
とにかく勝は海軍技術の習得のために、己を押し殺してまでも航海術を身につけたかったようだ。
そんなときにアメリカへの使節団派遣の計画が持ち上がる。
1859年(安政6年)のことである。
日米修好通商条約の批准のためアメリカに使節を派遣することになり、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、米艦ポーハタン号を使用する正使新見正興一行とは別に咸臨丸を派遣することになったのだ。
このとき長崎の海軍伝習所はすでに閉鎖されており、江戸に戻っていた木村摂津守がこの咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ、軍艦奉行となった木村は乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者で固める。
この航海はただ単に使節団として役目だけでなく、長崎で学んだ航海術の披露の場でもあったのだ。
勝は海軍伝習所で培った技術を実践することに燃えた。
海軍伝習所で指導者的立場にいた勝は必然的に重責の立場になるのだ。
もともとが自分達の航海術の実践を含んでいたため、勝はアメリカ海軍のジョン・マーサー・ブルックの乗船を頑なに拒否するのだ。
『咸臨丸日記』にも「外蕃は乗せない。外国人の力は絶対に借りない」と記すほど勝は日本人のみの航海に固執していた。
しかし、慎重な木村は、今現在の日本人の力量による太平洋横断は危険と判断し、ブルックを乗船させる。
結果的にはこれが功を奏す。
激しい船酔いのため日本人航海士たちは皆、倒れてしまったのだ。
ブルックが乗船していたことで、的確に指示と適切な技術のサポートを受けて咸臨丸は無事にサンフランシスコに到着することになる。
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坂本龍馬との関係などもあるが、それは人的なものとして置いておいて、業績となると江戸城無血開城と咸臨丸で太平洋を横断は絶対にはずせないものだ。
そもそも何故、勝海舟が咸臨丸の艦長として遣米使節団に選ばれたのか。

そのきっかけを作ったのは、1856年(安政2年)長崎海軍伝習所であった。
伝習所時代の勝は「オランダ語を理解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切であったので皆信頼を寄せていた。それゆえどのような難題でも勝が中に入ってくれればオランダ人は納得した」とオランダ教官カッテンディケは言っている。
その一方で、 「勝は万事怜悧で、どんな具合にあしらえば我々を最も満足させ得るかを見抜いてしまった。」とも説明している。
しかしこの当時の軍艦奉行 木村摂津守は「この頃の勝は癇癪持ちで、終始不平不満をぶちまけていた」と言っている。
カッテンディケと木村の言うことは相反しているが、勝の平素の素行をみていると、木村の述べている勝評のほうが正確なのだろう。
カッテンディケが間違っている。というよりも勝がオランダ人の前では自を殺していたのだろう。
とにかく勝は海軍技術の習得のために、己を押し殺してまでも航海術を身につけたかったようだ。
そんなときにアメリカへの使節団派遣の計画が持ち上がる。
1859年(安政6年)のことである。
日米修好通商条約の批准のためアメリカに使節を派遣することになり、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、米艦ポーハタン号を使用する正使新見正興一行とは別に咸臨丸を派遣することになったのだ。
このとき長崎の海軍伝習所はすでに閉鎖されており、江戸に戻っていた木村摂津守がこの咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ、軍艦奉行となった木村は乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者で固める。
この航海はただ単に使節団として役目だけでなく、長崎で学んだ航海術の披露の場でもあったのだ。
勝は海軍伝習所で培った技術を実践することに燃えた。
海軍伝習所で指導者的立場にいた勝は必然的に重責の立場になるのだ。
もともとが自分達の航海術の実践を含んでいたため、勝はアメリカ海軍のジョン・マーサー・ブルックの乗船を頑なに拒否するのだ。
『咸臨丸日記』にも「外蕃は乗せない。外国人の力は絶対に借りない」と記すほど勝は日本人のみの航海に固執していた。
しかし、慎重な木村は、今現在の日本人の力量による太平洋横断は危険と判断し、ブルックを乗船させる。
結果的にはこれが功を奏す。
激しい船酔いのため日本人航海士たちは皆、倒れてしまったのだ。
ブルックが乗船していたことで、的確に指示と適切な技術のサポートを受けて咸臨丸は無事にサンフランシスコに到着することになる。

2008年11月14日
吉田松陰 小事却って大害を為す
吉田松陰 今日の一言
『小事却って大害を為す』

吉田松陰一日一言
大行は細謹を顧みずは勿論のことなれども、小事却って大害を為す事もあるなり。
大きな仕事をする時には、些細なことなど気に懸けないのはもちろんである。
しかし、その些細なことが大きな害を引き起こすこともある。


『小事却って大害を為す』
吉田松陰一日一言
大行は細謹を顧みずは勿論のことなれども、小事却って大害を為す事もあるなり。
大きな仕事をする時には、些細なことなど気に懸けないのはもちろんである。
しかし、その些細なことが大きな害を引き起こすこともある。
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2008年11月13日
京都霊山護国神社に眠る土佐藩士
京都霊山護国神社に眠る土佐藩の志士。
長州藩に続いて土佐藩士もアップしておきます。
ざっと有名所だけ載せておきますね。
天誅組の志士

吉村寅太郎 那須信吾 安岡嘉助
海援隊士

池 蔵太
土佐の藩士も多くが眠っています。
もちろん坂本龍馬や中岡慎太郎もいることは言うまでもありませんよね。
ホントに時間があれば一人づつ名前をみて行きたいのですが、いかんせんチビたちが付いているとそういうわけにもいきません。
京都に来たのだからと言うミョ~な高揚感があり、時間が気になってしまいます。
今度はまたゆっくりと行こう!
その他に誰がいるか知ってる方は教えてくださいね。
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長州藩に続いて土佐藩士もアップしておきます。
ざっと有名所だけ載せておきますね。
天誅組の志士

吉村寅太郎 那須信吾 安岡嘉助
海援隊士

池 蔵太
土佐の藩士も多くが眠っています。
もちろん坂本龍馬や中岡慎太郎もいることは言うまでもありませんよね。
ホントに時間があれば一人づつ名前をみて行きたいのですが、いかんせんチビたちが付いているとそういうわけにもいきません。
京都に来たのだからと言うミョ~な高揚感があり、時間が気になってしまいます。
今度はまたゆっくりと行こう!
その他に誰がいるか知ってる方は教えてくださいね。

2008年11月13日
2008年11月12日
吉田松陰 習は必ず風となる
吉田松陰 今日の一言
『習は必ず風となる』

吉田松陰一日一言
才学を恃みて少成に安んじる本藩の弊習なり。
習は必ず風となる。
ちょっとした才知や学識があるからといって、少しの成功で満足するのは、我が長州人の悪しき習わしである。
習わしは必ず、気質となる。
すごく理解しやすいですよね。
日頃行っている自分達の行動。現状に満足し、新たなことに対する「面倒」、「困難」を避けるので今に満足して納得した振りをしているだけに過ぎない。
本当は皆、更なる成長を求め、自己を高めたいと望んでいるのではないだろうか。


『習は必ず風となる』
吉田松陰一日一言
才学を恃みて少成に安んじる本藩の弊習なり。
習は必ず風となる。
ちょっとした才知や学識があるからといって、少しの成功で満足するのは、我が長州人の悪しき習わしである。
習わしは必ず、気質となる。
すごく理解しやすいですよね。
日頃行っている自分達の行動。現状に満足し、新たなことに対する「面倒」、「困難」を避けるので今に満足して納得した振りをしているだけに過ぎない。
本当は皆、更なる成長を求め、自己を高めたいと望んでいるのではないだろうか。
タグ :吉田松陰
2008年11月11日
京都霊山護国神社に眠る長州藩士
京都霊山護国神社には多くの志士達が眠っている。
自身が命をかけた日本を静かに見守るように岡の上からみているのだろうか。
1868年(明治元年)明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。
それに感激した京都の公家や長州・土佐・越前・因幡・肥後などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、日本初の招魂社である。
そんな経緯からか、薩摩藩の志士達の姿はない。
訪れてみると本当に多くの志士達の姿がある。
各藩ごとに分かれて眠っているのだ。
長州藩士たち
松下村塾 四天王

久坂玄瑞 高杉晋作 吉田稔麿 入江九一
松下村塾門弟達

有吉熊次郎 寺島忠三郎
ほかに、品川弥二郎などもあったが時間の関係で見つけることが出来なかった。
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自身が命をかけた日本を静かに見守るように岡の上からみているのだろうか。
1868年(明治元年)明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。
それに感激した京都の公家や長州・土佐・越前・因幡・肥後などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、日本初の招魂社である。
そんな経緯からか、薩摩藩の志士達の姿はない。
訪れてみると本当に多くの志士達の姿がある。
各藩ごとに分かれて眠っているのだ。
長州藩士たち
松下村塾 四天王

久坂玄瑞 高杉晋作 吉田稔麿 入江九一
松下村塾門弟達

有吉熊次郎 寺島忠三郎
ほかに、品川弥二郎などもあったが時間の関係で見つけることが出来なかった。

2008年11月11日
吉田松陰 勉めざる者の情
吉田松陰 今日の一言
『勉めざる者の情』

吉田松陰一日一言
勉めざる者の情に三あり、曰く、吾が年老いたり。曰く、吾が才鈍なり。然らずんば則ち曰く、吾が才高し、学成れりと。
努力をしない人の気持ちには三つある。
一に言う、年をとりました、と。
二に言う、馬鹿ですから、と。
三に言う、私は才能が高く、もう学問は極めました、と。
人には色々理由があるだろうが、理屈をつけてやらないだけで、やれない人はいないのだ。
心の中に「面倒」「大変」などというものがあるから、逃げ出しているだけで、困難に向かい打ち勝たない人には発展も無く、成長もない。






湯本温泉山村別館 と 別棟 温泉付き離れしぇふず
長門湯本温泉 玉仙閣
萩の宿・常茂恵
萩の御厨(みくりや)・高大

『勉めざる者の情』
吉田松陰一日一言
勉めざる者の情に三あり、曰く、吾が年老いたり。曰く、吾が才鈍なり。然らずんば則ち曰く、吾が才高し、学成れりと。
努力をしない人の気持ちには三つある。
一に言う、年をとりました、と。
二に言う、馬鹿ですから、と。
三に言う、私は才能が高く、もう学問は極めました、と。
人には色々理由があるだろうが、理屈をつけてやらないだけで、やれない人はいないのだ。
心の中に「面倒」「大変」などというものがあるから、逃げ出しているだけで、困難に向かい打ち勝たない人には発展も無く、成長もない。




湯本温泉山村別館 と 別棟 温泉付き離れしぇふず
長門湯本温泉 玉仙閣
萩の宿・常茂恵
萩の御厨(みくりや)・高大
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2008年11月10日
吉田松陰 事務を知る者は俊傑に在り
吉田松陰 今日の一言
『事務を知る者は俊傑に在り』

吉田松陰一日一言
古人云わく、「儒生俗吏安んぞ事務を知らん、事務を知る者は俊傑に在り」と。
昔の人がいった。
「くだらない学者や役人にどうしてその時になすべきことが分かろうか。それが分かるのは、心ある立派な人物だけである」と。
所詮は机上の空論であり、現場で実践してきたことがない人には現場を分かることはできない。
現代においても、政治は机上の空論であり、実際に中小企業は危機に面しており、一般の庶民においても自民だ民主、公明など堂でもいい話なのだ。
要は正しい政治を行ってもらい、人々が安心して、ゆとりある生活が出来れば、党などはどうでもいい話なのだ。
これが分からない政治家がいる以上は日本はよくはならないだろう。
まさに平成維新を起すときなのかもしれない。


『事務を知る者は俊傑に在り』
吉田松陰一日一言
古人云わく、「儒生俗吏安んぞ事務を知らん、事務を知る者は俊傑に在り」と。
昔の人がいった。
「くだらない学者や役人にどうしてその時になすべきことが分かろうか。それが分かるのは、心ある立派な人物だけである」と。
所詮は机上の空論であり、現場で実践してきたことがない人には現場を分かることはできない。
現代においても、政治は机上の空論であり、実際に中小企業は危機に面しており、一般の庶民においても自民だ民主、公明など堂でもいい話なのだ。
要は正しい政治を行ってもらい、人々が安心して、ゆとりある生活が出来れば、党などはどうでもいい話なのだ。
これが分からない政治家がいる以上は日本はよくはならないだろう。
まさに平成維新を起すときなのかもしれない。
タグ :吉田松陰
2008年11月10日
篤姫 宮崎あおい 第45回
篤姫 宮崎あおい 第45回 『母からの手紙』
将軍も御台所もいない大奥では、天璋院だけが心の支えとなっていた。

小松帯刀は徳川家を討とうとする西郷隆盛と大久保利通をあくまで止めようとしていた。
しかし二人は聞く耳を持たず、岩倉具視とともに幕府を倒す計画を進める。
岩倉の画策で、朝廷は徳川慶喜に官位と領地の返上を命じる。
天璋院はその命令に疑問を覚えつつ、勝海舟に戦だけは避けるようにと言う。
しかし慶喜は薩摩・長州を挑発、諸国の軍勢が大坂へ集まり始める。小松帯刀は天璋院を救うため、お近と一緒にお幸の元へ向かう。小松帯刀に頼まれ、お幸は天璋院に薩摩へ帰るようにとの文を書く。
母からの文を読んだ天璋院は、使者に帰ることはできないと涙ながらに告げる。そこで重野は滝山に、薩摩へ帰るよう天璋院を説得して欲しいと頼む。生まれ育った薩摩に討たれるようなことがあってはあまりにむごいと言う重野に折れ、滝山は天璋院の前へ。しかし天璋院は、大奥の皆こそが自分の家族だと言いその説得を断る。そして大奥を最後まで守り抜く決意を新たにするのだった…。
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将軍も御台所もいない大奥では、天璋院だけが心の支えとなっていた。

小松帯刀は徳川家を討とうとする西郷隆盛と大久保利通をあくまで止めようとしていた。
しかし二人は聞く耳を持たず、岩倉具視とともに幕府を倒す計画を進める。
岩倉の画策で、朝廷は徳川慶喜に官位と領地の返上を命じる。
天璋院はその命令に疑問を覚えつつ、勝海舟に戦だけは避けるようにと言う。
しかし慶喜は薩摩・長州を挑発、諸国の軍勢が大坂へ集まり始める。小松帯刀は天璋院を救うため、お近と一緒にお幸の元へ向かう。小松帯刀に頼まれ、お幸は天璋院に薩摩へ帰るようにとの文を書く。
母からの文を読んだ天璋院は、使者に帰ることはできないと涙ながらに告げる。そこで重野は滝山に、薩摩へ帰るよう天璋院を説得して欲しいと頼む。生まれ育った薩摩に討たれるようなことがあってはあまりにむごいと言う重野に折れ、滝山は天璋院の前へ。しかし天璋院は、大奥の皆こそが自分の家族だと言いその説得を断る。そして大奥を最後まで守り抜く決意を新たにするのだった…。
