2008年11月29日
北垣晋太郎 但馬農兵の創設
北垣晋太郎 但馬農兵の設立に深くかかわった男で、もとは庄屋の倅だった。
北垣は「但馬聖人」と呼ばれた儒学者 池田草庵の門弟であり、その私塾 青谿書院では塾頭にまで挙げられるほどであった。
しかしある日、北垣は郷里を飛び出し政治活動に邁進する。
尊皇攘夷を唱え、激しい活動ゆえに池田草庵から破門されてしまう。

1854年(安政元年)ペリーが再び浦賀に来航し、日米和親条約を締結、これに対し危機感を感じた多くの志士達。
そんな中、黒船が丹生浦沖を通過していくのだ。
これに慌てたのが京都に近い但馬の志士達だった。
何せ天皇がいる京都の側でもあるから、夷敵が京都を侵略するのでは?と大騒ぎになったのだ。
北垣はこの危機感から、中島太郎兵衛、太田六兵衛ら但馬の豪農たちを先導し、農民を募って兵士とし海岸線を固めようとしたのだ。北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとした「農兵論」である。
1863年(文久3年)京都において幕臣 山岡鉄舟と会った北垣は、農兵組織について相談する。
相談を受けた山岡は幕府老中への働きを約束し、実際に幕府勘定奉行はこれを承認するのだ。
さらに北垣は京都で攘夷活動をする真木和泉、長州の久坂玄瑞・寺島忠三郎らに会い、朝廷からも農兵組織の許可を貰えるように頼んでいる。
朝廷にしてみれば、孝明天皇の意志は攘夷であり、このような申し出に嫌と言う筈もなく、但馬農兵の許可はすんなりと出るのだ。
そこに多くの志士達も絡んでくるのだが、寺田屋事件で逃亡した薩摩藩の美玉三平や、福岡藩の平野國臣である。
このまま北垣の思うようにことが進むかに思われたのだが、1863年(文久3年)8月18日、京都で政変が起こる。
世に言う8.18の政変である。
これにより長州藩を代表する尊王攘夷派は失脚、孝明天皇も政変の正当性を認めてしまったために、攘夷派が進めていた大和行幸も中止となり、その先鋒で挙兵していた天誅組は逆賊となってしまう。
何とかせねばと、平野國臣は大和を脱出し、向かった先が但馬だった。
そんな状況の中で平野は但馬で力のある北垣を擁し挙兵を促すのだ。平野と北垣は長州三田尻に向かい、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿 沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。
平野と北垣は沢らを船に乗せ三田尻を出向、さらに河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加え生野に向かう。
生野に着いたが、このときに天誅組の潰滅を知るのだ。平野は挙兵の中止を主張するものの、河上ら強硬派は天誅組の復讐をすべしと息巻き、挙兵は決行されることになる後に言う生野の変である。
北垣晋太郎は「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が群集した。
しかし幕府はすぐさま豊岡藩、出石藩、姫路藩を動かし、素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がるが、河上らの強硬派により解散はできなかった。
ところが主将の沢宣嘉が解散派とともに脱走。これには集まった農民たちは動揺し、そして激怒する。
怒った農民たちは河上弥一らを「偽浪士」と罵って強襲、河上達は自刃する。
平野は兵を解散させ逃げ出すのだが、途中で捕縛されてしまう。
北垣はなぜか生き残り、後年京都府知事などになっている。
これは農民出身であり、驕るところがなかった北垣の人柄のよさなのか、運が良かっただけなのかわからないが、北垣は後年も民のために尽力していくことになる。
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しかしある日、北垣は郷里を飛び出し政治活動に邁進する。
尊皇攘夷を唱え、激しい活動ゆえに池田草庵から破門されてしまう。

1854年(安政元年)ペリーが再び浦賀に来航し、日米和親条約を締結、これに対し危機感を感じた多くの志士達。
そんな中、黒船が丹生浦沖を通過していくのだ。
これに慌てたのが京都に近い但馬の志士達だった。
何せ天皇がいる京都の側でもあるから、夷敵が京都を侵略するのでは?と大騒ぎになったのだ。
北垣はこの危機感から、中島太郎兵衛、太田六兵衛ら但馬の豪農たちを先導し、農民を募って兵士とし海岸線を固めようとしたのだ。北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとした「農兵論」である。
1863年(文久3年)京都において幕臣 山岡鉄舟と会った北垣は、農兵組織について相談する。
相談を受けた山岡は幕府老中への働きを約束し、実際に幕府勘定奉行はこれを承認するのだ。
さらに北垣は京都で攘夷活動をする真木和泉、長州の久坂玄瑞・寺島忠三郎らに会い、朝廷からも農兵組織の許可を貰えるように頼んでいる。
朝廷にしてみれば、孝明天皇の意志は攘夷であり、このような申し出に嫌と言う筈もなく、但馬農兵の許可はすんなりと出るのだ。
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世に言う8.18の政変である。
これにより長州藩を代表する尊王攘夷派は失脚、孝明天皇も政変の正当性を認めてしまったために、攘夷派が進めていた大和行幸も中止となり、その先鋒で挙兵していた天誅組は逆賊となってしまう。
何とかせねばと、平野國臣は大和を脱出し、向かった先が但馬だった。
そんな状況の中で平野は但馬で力のある北垣を擁し挙兵を促すのだ。平野と北垣は長州三田尻に向かい、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿 沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。
平野と北垣は沢らを船に乗せ三田尻を出向、さらに河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加え生野に向かう。
生野に着いたが、このときに天誅組の潰滅を知るのだ。平野は挙兵の中止を主張するものの、河上ら強硬派は天誅組の復讐をすべしと息巻き、挙兵は決行されることになる後に言う生野の変である。
北垣晋太郎は「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が群集した。
しかし幕府はすぐさま豊岡藩、出石藩、姫路藩を動かし、素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がるが、河上らの強硬派により解散はできなかった。
ところが主将の沢宣嘉が解散派とともに脱走。これには集まった農民たちは動揺し、そして激怒する。
怒った農民たちは河上弥一らを「偽浪士」と罵って強襲、河上達は自刃する。
平野は兵を解散させ逃げ出すのだが、途中で捕縛されてしまう。
北垣はなぜか生き残り、後年京都府知事などになっている。
これは農民出身であり、驕るところがなかった北垣の人柄のよさなのか、運が良かっただけなのかわからないが、北垣は後年も民のために尽力していくことになる。

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Posted by 左近将監 at 13:13│Comments(0)│TrackBack(0)
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