2008年08月28日

島津斉彬 人望があるが故に

近代薩摩の祖 島津斉彬

島津斉彬は1809年(文化6年)第10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれる。

母・周子は池田治道の娘で「賢夫人」として知られた女性で、周子は自身が出生した3人の子供は乳母をつけず、周子自身の手で養育されている。
また、曽祖父である第8代藩主・島津重豪の影響を受け、洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが、皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の1つになっていく。

周囲の人は斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水の如く費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと心配され、島津斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。
それだけではないだろうがそのことが次に語るお由羅騒動にも繋がる。

家老・調所広郷や斉興の側室・お由羅は、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策しする。
斉彬派側近は、久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏洩して首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。
斉彬派の4人が必死で脱藩し、重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長溥に援助を求めた。
長溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽らが事態収拾に努めた。
こうして1851年(嘉永4年)斉興は隠居し、島津斉彬は第11代藩主に就任する。
この一連のお家騒動はお由羅騒動という。
斉彬はこのときの反対派の人々も罰することなく重用し、薩摩藩の分裂を避け人的充実も忘れてはいなかったのだ。

藩主に就任した斉彬は、藩の富国強兵に努める。
洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。

土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、1854年(安政元年)西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。

日の丸を日本船章にすべきだと献策し、同年に幕府に正規に採用されこととなり、以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。
また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。
また、下士階級出身の西郷隆盛大久保利通を登用して大いに用いる手腕もみせ、力のある者を積極的に重用していくのだ。

斉彬は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。
斉彬は彼らと共に幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
特に1853年(嘉永6年)のペリー艦隊来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張。

阿部正弘の死後、大老となった井伊直弼とは将軍継嗣問題で真っ向から対立し、第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。

斉彬は養女とした篤姫を近衛家の養女とした上で将軍 徳川家定の正室として嫁がせ、幕府内での発言力を強靭なものにし、将軍職を一橋にと計画していた。
一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。
井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。
多くの攘夷論者や志士達が弾劾されていくことになる。

結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
将軍継嗣問題で敗れた者達は中央政権から遠ざけられ、謹慎、蟄居、などの憂き目を見る。

斉彬はこれに対し憤慨、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画する。

しかしその、鹿児島城下、天保山調練所で出兵のための練兵を観覧の最中に発病。
介抱虚しく7月16日にこの世を去る。享年50歳。

そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとあわせ、父・斉興や異母弟・久光、またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。
調べではコレラとの噂があったが赤痢のようである。

しかし、斉彬の意向はしっかりと継がれており、後に小松帯刀西郷隆盛大久保利通篤姫など多くの志を持った者たちによって引き継がれていくのである。


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