2008年08月27日
高杉晋作の義弟 南貞助
長州藩内の内紛が治まり、「正義派」が「俗論派」を抑えることで一先ずは藩の方向性は見えて来た。
そうすると高杉晋作は積年の夢だった西洋文明を直に見ることのため、伊藤俊輔を伴い長崎へ向かった。
長崎に着いた高杉は密航すべく船を捜すのだ。
しかしこれに反対した人物がいた。グラバーだ。
グラバーは長州藩の大事なときに高杉自身が留学することは危険であり、日本が落ち着いてから留学すればいいと諭した。
グラバーの説得によりイギリス行きを諦めた高杉は長州へと戻っていく。

長州藩は先に帰国した伊藤俊輔、井上聞多の代わりの留学生を探しており、高杉は自身が行けないのならと山崎小三郎と南貞助を留学に勧めたのだ。
山崎は先にも書いた人物である。
南は時に18歳、高杉の従兄弟でもあり、義弟でもあった。
高杉は自分の義弟に自分の夢を託したのだ。
南はその高杉の後押しを得て、イギリスへ向かう。
しかし、山崎の病や極度の貧困により思うように勉強は進まなかったようだ。
学費が足りず、陸軍大学校などで学んではいたのだが、留学継続を諦め、1867年(慶応3年)帰国する。
帰国する途中、香港の地で高杉が病死したこと知ったという。
帰国後も再度の留学を試みるのだが、なかなか実現できず、明治元年、外国御用掛として新政府に出任する。
南が再びイギリスに渡るのは、1871年(明治4年)のこと。
東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を命じられたからである。
南はイギリスで法律、実業を学び、イギリス人の女性と結婚までしているのだ。
南は日本民族を優秀にする為、国際結婚をして民俗の血を混ぜるのだとし、「人種改造論」を主張。
このときイギリスに来ていた岩倉具視がこれ承認し、日本における国際結婚の第1号となったのだ。
しかし、妻のライザは子どもに恵まれず、ライザ自身も日本になじもうとしなかったため10年後には離婚という結果になっている。
その後も南貞助は国際化に関することに力を注ぎ、外国人相手の旅行会社を設立するなど「国際人」として生きていた。
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そうすると高杉晋作は積年の夢だった西洋文明を直に見ることのため、伊藤俊輔を伴い長崎へ向かった。
長崎に着いた高杉は密航すべく船を捜すのだ。
しかしこれに反対した人物がいた。グラバーだ。
グラバーは長州藩の大事なときに高杉自身が留学することは危険であり、日本が落ち着いてから留学すればいいと諭した。
グラバーの説得によりイギリス行きを諦めた高杉は長州へと戻っていく。

長州藩は先に帰国した伊藤俊輔、井上聞多の代わりの留学生を探しており、高杉は自身が行けないのならと山崎小三郎と南貞助を留学に勧めたのだ。
山崎は先にも書いた人物である。
南は時に18歳、高杉の従兄弟でもあり、義弟でもあった。
高杉は自分の義弟に自分の夢を託したのだ。
南はその高杉の後押しを得て、イギリスへ向かう。
しかし、山崎の病や極度の貧困により思うように勉強は進まなかったようだ。
学費が足りず、陸軍大学校などで学んではいたのだが、留学継続を諦め、1867年(慶応3年)帰国する。
帰国する途中、香港の地で高杉が病死したこと知ったという。
帰国後も再度の留学を試みるのだが、なかなか実現できず、明治元年、外国御用掛として新政府に出任する。
南が再びイギリスに渡るのは、1871年(明治4年)のこと。
東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を命じられたからである。
南はイギリスで法律、実業を学び、イギリス人の女性と結婚までしているのだ。
南は日本民族を優秀にする為、国際結婚をして民俗の血を混ぜるのだとし、「人種改造論」を主張。
このときイギリスに来ていた岩倉具視がこれ承認し、日本における国際結婚の第1号となったのだ。
しかし、妻のライザは子どもに恵まれず、ライザ自身も日本になじもうとしなかったため10年後には離婚という結果になっている。
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Posted by 左近将監 at 14:59│Comments(0)│TrackBack(0)
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