2008年08月24日
異国の地にて散る 山崎小三郎
志を高く密航留学をする志士達。
しかし、長州藩の留学生たちのように資金面で苦労するものは多かったようだ。
井上聞多、伊藤俊輔が帰国したことで、長州藩は新たに新しく2人の留学生をイギリスに送ることを計画する。
一人は山崎小三郎、もう一人は南貞助である。
山崎は長州藩 藩船癸亥丸の船将と努め、将来を嘱望された次世代の長州藩を担う若手であった。
一方、南のほうは高杉晋作を義兄にもち、高杉の強い勧めでイギリス留学を望んだ。
彼ら二人ともう一人、竹田庸次郎も選ばれイギリスに向け出発していた。
長州藩の財政は厳しく、3人の留学生に渡された資金は千両だけであったという。
上海に到着した竹田は所用で一旦日本に帰国することになり、イギリスに向かうのは山崎と南の二人になった。
上海を出て4ヶ月。1865年(慶応元年)11月イギリスの到着する。
その頃には二人の資金は底を付いており、住居だけは第一次留学生の山尾庸三が借りていた部屋に入ることが出来たようだ。
だが冬のロンドンである。
暖を取るものもなく、食事もままならない状態が続いたそうだ。
ロンドンにいた野村弥吉はそのときの事を手紙でこう伝えている。
「山崎小三郎、南同行の処、両人とも無金にて、着英の上大いに困窮にて朝夕衣食の事も弁じ難く、昼夜共衣服をも替えず、かつ居処に火炉等もこれなく、深冬を凌ぎ、誠に無窮の貧困を致し候由、居住は彼のクーパの内に居候由」とある。

そのような状態だったので、遂には山崎は疲労と栄養失調により病にかかり、起き上がることさえ出来なくなってしまった。
これを見かねたグラバー商会のハリソンの父親は月々25ポンドの援助してくれるようになった。
住まいもロンドン大学付近のウィリアムソン教授の家に移り、夫妻の献身的な世話を受けた。
しかし、山崎はその甲斐もなく1866年(慶応2年)1月27日病院で息を引き取る。死因は肺炎だったそうである。
野村は後年、飢えと寒さ、語学力不足、異国での心労等を考え、留学資金の見通しが立たない場合は留学をさせないほうがよいといっている。
このことは密留学が志だけではとても難しく、多くの困難が待っていることを証明した結果となった。
山崎の死を聞いた高杉はひどく悲しみ、慚愧に堪えないが長州人が異郷の地に骨を埋めた日本人の先鋒となったことは、他藩にも誇りになり得ると自ら慰めている。
山崎の遺骸はロンドンの共同墓地に埋葬され、薩長両藩の留学生たちの手で手厚く葬られた。
幕末の時代、祖国を憂い、自身の命を賭してまで近代日本のため取り組んだ彼ら留学生たちの姿勢は決して忘れてはならないであろう。
現代社会、物が満ち溢れ、文化、技術が自由に交差することに感謝し、山崎小三郎達のような若者たちの犠牲をいつまでも大切にしていったほうが良いのだろうと改めて感じた。
山崎小三郎 享年22歳。
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しかし、長州藩の留学生たちのように資金面で苦労するものは多かったようだ。
井上聞多、伊藤俊輔が帰国したことで、長州藩は新たに新しく2人の留学生をイギリスに送ることを計画する。
一人は山崎小三郎、もう一人は南貞助である。
山崎は長州藩 藩船癸亥丸の船将と努め、将来を嘱望された次世代の長州藩を担う若手であった。
一方、南のほうは高杉晋作を義兄にもち、高杉の強い勧めでイギリス留学を望んだ。
彼ら二人ともう一人、竹田庸次郎も選ばれイギリスに向け出発していた。
長州藩の財政は厳しく、3人の留学生に渡された資金は千両だけであったという。
上海に到着した竹田は所用で一旦日本に帰国することになり、イギリスに向かうのは山崎と南の二人になった。
上海を出て4ヶ月。1865年(慶応元年)11月イギリスの到着する。
その頃には二人の資金は底を付いており、住居だけは第一次留学生の山尾庸三が借りていた部屋に入ることが出来たようだ。
だが冬のロンドンである。
暖を取るものもなく、食事もままならない状態が続いたそうだ。
ロンドンにいた野村弥吉はそのときの事を手紙でこう伝えている。
「山崎小三郎、南同行の処、両人とも無金にて、着英の上大いに困窮にて朝夕衣食の事も弁じ難く、昼夜共衣服をも替えず、かつ居処に火炉等もこれなく、深冬を凌ぎ、誠に無窮の貧困を致し候由、居住は彼のクーパの内に居候由」とある。

そのような状態だったので、遂には山崎は疲労と栄養失調により病にかかり、起き上がることさえ出来なくなってしまった。
これを見かねたグラバー商会のハリソンの父親は月々25ポンドの援助してくれるようになった。
住まいもロンドン大学付近のウィリアムソン教授の家に移り、夫妻の献身的な世話を受けた。
しかし、山崎はその甲斐もなく1866年(慶応2年)1月27日病院で息を引き取る。死因は肺炎だったそうである。
野村は後年、飢えと寒さ、語学力不足、異国での心労等を考え、留学資金の見通しが立たない場合は留学をさせないほうがよいといっている。
このことは密留学が志だけではとても難しく、多くの困難が待っていることを証明した結果となった。
山崎の死を聞いた高杉はひどく悲しみ、慚愧に堪えないが長州人が異郷の地に骨を埋めた日本人の先鋒となったことは、他藩にも誇りになり得ると自ら慰めている。
山崎の遺骸はロンドンの共同墓地に埋葬され、薩長両藩の留学生たちの手で手厚く葬られた。
幕末の時代、祖国を憂い、自身の命を賭してまで近代日本のため取り組んだ彼ら留学生たちの姿勢は決して忘れてはならないであろう。
現代社会、物が満ち溢れ、文化、技術が自由に交差することに感謝し、山崎小三郎達のような若者たちの犠牲をいつまでも大切にしていったほうが良いのだろうと改めて感じた。
山崎小三郎 享年22歳。
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Posted by 左近将監 at 09:26│Comments(0)│TrackBack(0)
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