2008年08月12日
高杉晋作 奇兵隊との衝突
[高杉晋作] ブログ村キーワード
高杉晋作によって1863年(文久3年)白石正一郎の屋敷において産声をあげた奇兵隊。

「匹夫の志」も奪わないとうたった画期的な軍隊であった奇兵隊だが、結成はしてみたが矛先を向ける敵がいない。
外国艦隊もいっこうに姿を現さないし、熱くたぎった志は力の向けどころを探していた。
高杉は元々、奇兵隊を正規軍の発奮剤として考えていたこともあり、そのことが奇兵隊と正規軍の先鋒隊との軋轢に繋がっていくのだ。
そんな中、遂に行き場のない志は思わぬところで武力衝突をしてしまう。
先鋒隊と奇兵隊の衝突である。
これは死者1名を出す惨事になってしまう。
藩首脳は奇兵隊の解散を要求するほどだった。
藩主 毛利敬親は晋作を奇兵隊総督から藩 政務座に据え変え、奇兵隊総督に河上弥一と滝弥太郎を置いた。
この時点から奇兵隊は晋作の手を離れ、当初の構想とは違った道を歩むようになったのだ。
晋作と奇兵隊の最初の意見衝突は、1864年(元治元年)10月27日。
この頃、力を再興しつつあった長州藩内の「俗論派」を晋作は武力をもって倒そうとする。
晋作は奇兵隊の陣営を尋ね、軍監山県狂介に蜂起を促すのであるが、山県はあっけなく申し入れを断るのだ。
おかしな話である。
奇兵隊の生みの親の高杉晋作が要請しているにもかかわらず否を唱えているのだ。
失望した晋作は筑前に逃亡することになる。
逃亡した筑前で「俗論派」が「正義派」を粛清するウワサを聞いた晋作は、長州に舞戻りふたたび奇兵隊をはじめとする諸隊に蜂起を促す。
しかし、内戦を避けようとする諸隊は求めに応じることはなく、「奇兵隊開闢総督」のしての高杉晋作の威光このときには全く通じなかった。
晋作は僅かな者とともに下関にて挙兵。
内戦が始まると奇兵隊や諸隊は晋作に呼応し始め、「俗論派」の送った鎮圧軍を撃退することになる。
これにより一枚岩になったと思われた晋作と奇兵隊だったが、そうではなかった。
勝に乗じて萩城下まで攻めようとする晋作に対し、奇兵隊軍監山県はひとまず兵を退げ、萩の様子を窺ってから攻めようという。
結局諸隊も山県の意見に賛同したため諸隊は山口に移動してしまう。
萩を囲むように諸隊は配置し、じわじわと政権交代を「俗論派」に迫る。
その結果「正義派」が復権し新しい政権を生み出すのである。政権交代で血を流した諸隊の発言力は強くなっていき、諸隊は会議所を設け、ここに幹部が集い連絡し、会議において物事を決めていくシステムを作った。
こうした庶民や下級武士からなる奇兵隊や諸隊が力をつけることにより、藩の政治にまで影響力を持つことは晋作をはじめ、上級武士たちにとっては面白くないことだった。
とくに晋作にしてみれば自分が作った奇兵隊だが、自由にコントロールできない状態であったことは不満だったようだ。
元々は晋作は政権交代・攘夷倒幕のための「軍事力」としての庶民の力であり、政治に参加させる気はなかったのである。
打開策として晋作は藩士からなる『干城隊』を組織し、軍事力の中核となし、干城隊によって諸隊をコントロールしようとする。
しかし、この策も実現はしなかった。
諸隊はそれほどまでに力をつけてきており、藩もその諸隊の力がなくして幕府に立ち向かえないことを知っていたため、高圧的には出来なかったのだ。
実際に第二次長州征伐の時には諸隊が前線にて奮戦することで、長州藩は維新の厚い扉を押し開いていくことになるのだから。
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高杉晋作によって1863年(文久3年)白石正一郎の屋敷において産声をあげた奇兵隊。

「匹夫の志」も奪わないとうたった画期的な軍隊であった奇兵隊だが、結成はしてみたが矛先を向ける敵がいない。
外国艦隊もいっこうに姿を現さないし、熱くたぎった志は力の向けどころを探していた。
高杉は元々、奇兵隊を正規軍の発奮剤として考えていたこともあり、そのことが奇兵隊と正規軍の先鋒隊との軋轢に繋がっていくのだ。
そんな中、遂に行き場のない志は思わぬところで武力衝突をしてしまう。
先鋒隊と奇兵隊の衝突である。
これは死者1名を出す惨事になってしまう。
藩首脳は奇兵隊の解散を要求するほどだった。
藩主 毛利敬親は晋作を奇兵隊総督から藩 政務座に据え変え、奇兵隊総督に河上弥一と滝弥太郎を置いた。
この時点から奇兵隊は晋作の手を離れ、当初の構想とは違った道を歩むようになったのだ。
晋作と奇兵隊の最初の意見衝突は、1864年(元治元年)10月27日。
この頃、力を再興しつつあった長州藩内の「俗論派」を晋作は武力をもって倒そうとする。
晋作は奇兵隊の陣営を尋ね、軍監山県狂介に蜂起を促すのであるが、山県はあっけなく申し入れを断るのだ。
おかしな話である。
奇兵隊の生みの親の高杉晋作が要請しているにもかかわらず否を唱えているのだ。
失望した晋作は筑前に逃亡することになる。
逃亡した筑前で「俗論派」が「正義派」を粛清するウワサを聞いた晋作は、長州に舞戻りふたたび奇兵隊をはじめとする諸隊に蜂起を促す。
しかし、内戦を避けようとする諸隊は求めに応じることはなく、「奇兵隊開闢総督」のしての高杉晋作の威光このときには全く通じなかった。
晋作は僅かな者とともに下関にて挙兵。
内戦が始まると奇兵隊や諸隊は晋作に呼応し始め、「俗論派」の送った鎮圧軍を撃退することになる。
これにより一枚岩になったと思われた晋作と奇兵隊だったが、そうではなかった。
勝に乗じて萩城下まで攻めようとする晋作に対し、奇兵隊軍監山県はひとまず兵を退げ、萩の様子を窺ってから攻めようという。
結局諸隊も山県の意見に賛同したため諸隊は山口に移動してしまう。
萩を囲むように諸隊は配置し、じわじわと政権交代を「俗論派」に迫る。
その結果「正義派」が復権し新しい政権を生み出すのである。政権交代で血を流した諸隊の発言力は強くなっていき、諸隊は会議所を設け、ここに幹部が集い連絡し、会議において物事を決めていくシステムを作った。
こうした庶民や下級武士からなる奇兵隊や諸隊が力をつけることにより、藩の政治にまで影響力を持つことは晋作をはじめ、上級武士たちにとっては面白くないことだった。
とくに晋作にしてみれば自分が作った奇兵隊だが、自由にコントロールできない状態であったことは不満だったようだ。
元々は晋作は政権交代・攘夷倒幕のための「軍事力」としての庶民の力であり、政治に参加させる気はなかったのである。
打開策として晋作は藩士からなる『干城隊』を組織し、軍事力の中核となし、干城隊によって諸隊をコントロールしようとする。
しかし、この策も実現はしなかった。
諸隊はそれほどまでに力をつけてきており、藩もその諸隊の力がなくして幕府に立ち向かえないことを知っていたため、高圧的には出来なかったのだ。
実際に第二次長州征伐の時には諸隊が前線にて奮戦することで、長州藩は維新の厚い扉を押し開いていくことになるのだから。
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