2008年08月07日

高杉晋作 開国に転じる時

1863年(文久3年)8・18の政変で長州藩は京都での地位を失う。
翌1864年(元治元年)4カ国の連合艦隊が長州を攻撃、馬関は戦火に包まれる。

高杉晋作をはじめ、奇兵隊などが決死で戦うが、文化の違いは明らかで、遂には外国の上陸を許すことになる。
完全なる敗北を前に長州は和議を申し込む。

その使者として選ばれたのは横浜のイギリス領事館などを焼き討ちした高杉晋作であった。
あの過激な晋作が・・・普通の人なら疑問に思うだろう。
しかし晋作の考えは攘夷一辺倒ではなかったのだ。

結果、晋作はあっけなく長州藩が「攘夷」を捨て外国に協力することを約束するのだ。

晋作の中ではもうそろそろ思想を「攘夷」から「開国」に変えさせる時がきたと判断したのだろう。
直接戦うことで夷敵の実力を体感した長州藩。
その違いは何なのかを皆が分かったであろうと思っていたに違いない。
晋作の思惑とは逆に、「攘夷」の志士達は納得できなかったようである。

高杉晋作のこの交渉は夷敵に魂を売った行為と見られてしまったのだ。
一夜にして「攘夷」から「開国」などということは時代を読めない者たちには理解などできるはずもない。

後年伊藤博文が語ったところでは、同じ松下村塾の同志、山田顕義品川弥二郎までもが晋作等、講和派の命を狙っていたらしい。

その後は高杉晋作たちは身の危険を感じ行方を晦ます。
その間に長州藩は幕府恭順派の「俗論派」が政権を握り、晋作ら「正義派」は弾圧を逃れていく。

弾圧を逃れていた晋作たちだが、どうせ死ぬなら志を遂げて死にたいと思うようになり、下関にて決起する。
内戦のすえ「正義派」は再び政権を勝ち取ることになる。
晋作たちは外国に下関港を開港し、外国との貿易を通じて国力を増強し、軍備を整えようとした。
晋作は諸部隊に対し、

赤間関(下関)も我断然、国体を愧じしめさるよう開港すべし。
しからざれば幕薩(幕府と薩摩)は申すに及ばず、ついには外夷の妖術に陥るならん。
五大州へ防長の腹をおしだして大細工をし出さねば、大割拠は成就いたさずならん。


はっきりと「開国」の方針を打ち出して入る。

この長州藩の豹変ぶりに戸惑った者たちがいる。
その一人に肥後の脱藩者 河上彦斎がいた。

河上は肥後の国学者林桜園に師事し、その影響を受けていた。
日本中で孤立しながらも「攘夷」を貫く長州藩に自分の夢を託し、脱藩して長州に来ていたのである。
長州に来た河上は晋作と意気投合、交誼を深めていく。
ところが4カ国艦隊に敗れ、講和を結んだ晋作に河上は憤慨し、裏切られた思いをいだく、そして
「お前のような輩と事を共にするよりは、帰国して獄に繋がれたほうがましだ」といい長州を後にする。

河上彦斎は肥後にて3年間獄に繋がれ、釈放後も頑なに「攘夷」を崩さなかったため、新政府により処刑されてしまう。

言い方は悪いが高杉晋作たちの「攘夷」は倒幕の為に作られたスローガンのようなものっだたのかも知れない。
「攘夷」のその奥にある真の意味を末端の志士達は理解できなかったのだろう。
だから、坂本龍馬の暗殺や大久保利通の暗殺など、時代の先を見ることの出来る英雄たちを思慮の浅さから斬ってしまったのだろう。

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