2008年08月06日

実学党の分裂

1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航する。
肥後藩主 細川斉護は幕府から浦賀警備を命じられる。
斉護は長岡監物に警備隊長を命じたのだ。

江戸に赴いた長岡は江戸において更なる見識を深めていく、水戸藩主の徳川斉昭をはじめ藤田東湖などの水戸藩士を中心に、吉田松陰西郷隆盛らと盛んに交流した。

特に徳川斉昭とは海防の件もあり話をする機会が多く、長岡は斉昭に心酔していった。
横井小楠も斉昭の登用などを藤田東湖に書状をおくり祝し、肥後藩同志一同、水戸藩に協力した旨を伝えている。

しかし1855年(安政2年)その徳川斉昭が幕府に対しアメリカとの和議を勧めたという話を聞くと、小楠は表向き攘夷を唱えながら裏で和議を勧める斉昭やその家臣を激しく批判し始めた。
この水戸藩に対する激しい批判は、実学党の同志からかならずしも理解されなかった。
長岡は1854年(安政元年)に警備の任を解かれ肥後に戻っている。

その溝は長岡と小楠の考え方にも違いを見せ始める。
二人は『大学』の三綱領すなわち
「明徳を明らかにする」
「民を新たにする」
「至然に止まる」のうち前2者のどちらを優先するかで論争を始めた。
この論争は互いの弟子たちをも巻き込んで行き、長岡は「明徳を明らかにする」、小楠は「民を新たにする」と主張し合い、双方譲らず最後には小楠は長岡に絶交を申し入れるまでに至ってしまう。

この論争は実学党が分裂する契機になる。
小楠は先ほども書いたように、ペリー来航後の水戸藩の行動に深く失望し、さらには水戸学を激しく批判した。
今後は私心を去って意を誠にし公明正大な経綸を行うことを理念を全国の武士たちに広めるべきだとし、全国的な視野から日本の政治を考えるといった方向になっており、藩という枠組から抜け出した考えだった。

一方長岡は、何より自己修練によって「明徳を明らかにして」藩主の為に藩の職務を遂行し、肥後藩自体を高めるというものだった。
この考え方の違いにより実学党は分裂、ますますその力を弱めていってしまう。

そして1859年(安政6年)長岡監物が病死してしまう。
このとき福井にいた小楠はこの報を受け落涙し、意見は違えたが今となっては懐かしいと下津休也、萩昌国に手紙を送っている。
幕末という急激な時代は肥後藩士同志でありながらも対立せざるを得ない厳しい政治状況を作っていたのである。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット




偽りの明治維新 Price740 円
幕末志士の世界 Price2,415 円
徹底図解幕末・維新 Price1,470 円
幕末維新・あの人の「その後」 Price539 円


この記事へのトラックバックURL
http://shouin1859.gifulog.com/t43441