2008年08月02日
肥後実学党の夢
天保年間、肥後に時勢を憂う者たちがいた。
熊本城下の長岡監物の屋敷では「近思録」の講演会が行われ、屋敷に集まっていたのは、下津休也、荻昌国、元田永孚、そして横井小楠だった。
家禄や家柄に違いはあったが4人は互いに切磋琢磨し己を磨き、肥後藩にとってどんな政治がいいのか問題点を論じ合った。
これが肥後実学党の始まりであった。

実学党の学風は、他念なく切実な気持ちで学に入り、自己本来の明徳を輝かして真の経綸を行うことを提唱した。
この会に参加する者が日を追って増え始めていき、講読会は藩政改革を目指す政治集団へと変貌していた。
藩の保守派はこれ疎んじ、実学党と名付けたのだ。
これが名前の由来である。
実学党の政治的中心人物は長岡監物であったが、精神的な中心は横井小楠で、新しい発想と、鋭い弁舌で他のものを圧倒していた。
当時の肥後藩は慢性的な赤字財政で、藩士は窮乏し民衆は災害や借金に苦しんでいた。
小楠は民衆の立場に立って政治に取り組もうとしたのである。
小楠が手本としたのが水戸藩である。
水戸藩は藩主徳川斉昭が藤田東湖や会沢正志斎らを登用し、文武の奨励、海防策の実施、節倹策の実施などを行っていた。
小楠は江戸遊学中に藤田東湖と会い話を聞くことにより感銘を受け敬意を持っていた。
そのような折、徳川斉昭や藤田東湖が水戸藩の急激な改革を幕府のよって咎められ、蟄居命令がでると、このことが肥後藩にも伝わり、水戸藩と同調する実学党に対する風当たりも厳しくなったのだ。
特に中心人物であった長岡監物と横井小楠は非難が集中し、監物は家老職まで辞される。
これにより実学党は改革の夢を断たれたことになる。
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熊本城下の長岡監物の屋敷では「近思録」の講演会が行われ、屋敷に集まっていたのは、下津休也、荻昌国、元田永孚、そして横井小楠だった。
家禄や家柄に違いはあったが4人は互いに切磋琢磨し己を磨き、肥後藩にとってどんな政治がいいのか問題点を論じ合った。
これが肥後実学党の始まりであった。

実学党の学風は、他念なく切実な気持ちで学に入り、自己本来の明徳を輝かして真の経綸を行うことを提唱した。
この会に参加する者が日を追って増え始めていき、講読会は藩政改革を目指す政治集団へと変貌していた。
藩の保守派はこれ疎んじ、実学党と名付けたのだ。
これが名前の由来である。
実学党の政治的中心人物は長岡監物であったが、精神的な中心は横井小楠で、新しい発想と、鋭い弁舌で他のものを圧倒していた。
当時の肥後藩は慢性的な赤字財政で、藩士は窮乏し民衆は災害や借金に苦しんでいた。
小楠は民衆の立場に立って政治に取り組もうとしたのである。
小楠が手本としたのが水戸藩である。
水戸藩は藩主徳川斉昭が藤田東湖や会沢正志斎らを登用し、文武の奨励、海防策の実施、節倹策の実施などを行っていた。
小楠は江戸遊学中に藤田東湖と会い話を聞くことにより感銘を受け敬意を持っていた。
そのような折、徳川斉昭や藤田東湖が水戸藩の急激な改革を幕府のよって咎められ、蟄居命令がでると、このことが肥後藩にも伝わり、水戸藩と同調する実学党に対する風当たりも厳しくなったのだ。
特に中心人物であった長岡監物と横井小楠は非難が集中し、監物は家老職まで辞される。
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