2008年07月24日

武田耕雲斎 敦賀にて散る

先日海水浴をしに大谷吉継の領地 敦賀の水晶浜に行って来た。

原発があるせいか、海岸は人工的にも手が加えられとても綺麗。

もう15年くらい海水浴はここに来ている。

まぁそんなことはさておいて帰りに思い出した。
武田耕雲斎のお墓に行ってから帰ろう。

海水浴客多くいれども、耕雲斎のお墓に行く奴なんかいるはずもない。
場所は近いのに道はガラガラ、いるのは僕だけだ。


耕雲斎といえば水戸天狗党だ。
耕雲斎の諫めも及ばず決起した藤田小四郎。最早時代の流れと総大将に担ぎ上げられた武田耕雲斎

天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた一橋慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていたのだ。
そのため800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。
降伏すると、簡単な取調べを受けるが、斬首された。

徳川斉昭の死後、行き場を失っていた耕雲斎は天狗党の首領とされた時、既に死を覚悟していたようだ。
最後の死に場所を求めたのかもしれない。



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この記事へのコメント
天狗党を研究している者ですが一橋慶喜を水戸藩主にする計画は無かった様です。将軍後見役として自分達を見捨てないと言う甘い考えは有った様ですが。
幕府の追討を受けているのですから所詮助かる道は無かった様です。例えば長州迄辿りついても尊皇攘夷派は一掃されていますので無理な相談であったと思います。
慶喜は物事を貫徹するタイプではなく寧ろ趣味の世界に生きるそんな人物でありました。静岡の年間予算が6万両位の時新政府から10万両を貰い以後カメラ一筋の人生でした。徳川の将軍として江戸城に一度も登城しない将軍で徳川本家から系図としては追放された身分です。
Posted by aita at 2008年07月24日 17:20