2008年07月23日
精忠組 寺田屋の悲劇
薩摩藩主 島津茂久から正式に認められた精忠組。
その後精忠組は大久保利通を中心に活動していく。
1860年(万延元年)には過激な水戸藩との連携をさらに強くし、井伊直弼襲撃計画が江戸詰めの面々を通じて具体化されていく。
大久保はこれに対して島津久光に「出兵建言主意書」を提出。
水戸藩、越前藩、尾張藩との連携を訴え、先君 島津斉彬の遺志を受け継ぐことが大切であるとしている。
具体的には将軍家に嫁した天璋院篤姫の警護を名文に江戸と京都に100人ずつ出兵すべきとした。
大久保の主張は過激な脱藩者的なものではなく、あくまでも島津久光を口説き、薩摩藩全体で行うことを主張しており、これに対した島津久光の答えは「争乱の義」ならば出兵はやぶさかではないが、今はまだその義に非ずという自重論であった。
しかし血気盛んな志士がそのようなことで納まるわけも無く、その後も大久保は5度にわたり建言している。
大久保のイメージはどちらかと言うと冷静であり、穏健なイメージが強いが、実際はかなりの過激な発言を繰り返していることがおもしろい。
亡き斉彬公の遺志を受け継ぐという、ある意味漠然とした使命により結束した精忠組だったが、時代の波に押し流されていく。
1862年(文久2年)島津久光は1000人の兵をもって上京することを決める。
しかし、この情報を聞いた精忠組 有馬新七らは、これを利用し攘夷派の集結、挙兵を目論んだ。
このウワサはたちまちに広がり、各地の攘夷派の志士たちが集まり始める。

そして京都伏見の寺田屋に集結をした。
その中に薩摩藩士が31名おり、このウワサを聞いた島津久光は激怒。
早速鎮撫隊を差し向けるのである。
このときの鎮撫隊はほとんどが精忠組であり、寺田屋に集まった過激な攘夷志士達もほとんどが精忠組であった。
まさに同士討ちである。
有馬新七の「おいごと刺せ!」という言葉でも分かるように凄惨を極めた騒動であった。
この寺田屋事件の同士討ちにより、精忠組はその姿を消すことになる。
どこの藩も同じであるが、同じ志を持ちながらもその手法が異なったが故の結末だった。
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その後精忠組は大久保利通を中心に活動していく。
1860年(万延元年)には過激な水戸藩との連携をさらに強くし、井伊直弼襲撃計画が江戸詰めの面々を通じて具体化されていく。
大久保はこれに対して島津久光に「出兵建言主意書」を提出。
水戸藩、越前藩、尾張藩との連携を訴え、先君 島津斉彬の遺志を受け継ぐことが大切であるとしている。
具体的には将軍家に嫁した天璋院篤姫の警護を名文に江戸と京都に100人ずつ出兵すべきとした。
大久保の主張は過激な脱藩者的なものではなく、あくまでも島津久光を口説き、薩摩藩全体で行うことを主張しており、これに対した島津久光の答えは「争乱の義」ならば出兵はやぶさかではないが、今はまだその義に非ずという自重論であった。
しかし血気盛んな志士がそのようなことで納まるわけも無く、その後も大久保は5度にわたり建言している。
大久保のイメージはどちらかと言うと冷静であり、穏健なイメージが強いが、実際はかなりの過激な発言を繰り返していることがおもしろい。
亡き斉彬公の遺志を受け継ぐという、ある意味漠然とした使命により結束した精忠組だったが、時代の波に押し流されていく。
1862年(文久2年)島津久光は1000人の兵をもって上京することを決める。
しかし、この情報を聞いた精忠組 有馬新七らは、これを利用し攘夷派の集結、挙兵を目論んだ。
このウワサはたちまちに広がり、各地の攘夷派の志士たちが集まり始める。

そして京都伏見の寺田屋に集結をした。
その中に薩摩藩士が31名おり、このウワサを聞いた島津久光は激怒。
早速鎮撫隊を差し向けるのである。
このときの鎮撫隊はほとんどが精忠組であり、寺田屋に集まった過激な攘夷志士達もほとんどが精忠組であった。
まさに同士討ちである。
有馬新七の「おいごと刺せ!」という言葉でも分かるように凄惨を極めた騒動であった。
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