2008年07月18日

大久保利通 精忠組の結成

大久保利通を筆頭とする薩摩藩下級武士の盟中『精忠組

1858年(安政6年)大老井伊直弼はアメリカ領事ハリスとの間に勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結んでしまう。

将軍問題も一橋慶喜を抑え、紀州の慶福に決定してしまう。
一橋を推していた水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽らを隠居、謹慎へと追い込み、強硬な政治を行っていた。
これを見た島津斉彬は危機感を感じ、勅命を奉じて幕政改革の乗り出そうとしていた。

その手段として兵を率いて上京し京師を警護しようとしていた。

近衛忠熈の手記には、近衛の奏上により孝明天皇から島津斉彬に京師警護の内勅が出ていたらしい。
「近衛は、益々斉彬が勤王の精神に感激し、主上に奏上する所ありしが、深く斉彬の志を嘉納あらせ給ひ、国家有事の日には速やかに兵を率いて上京し、京師の警護すべし、との内勅を賜えり」とある。

しかしこれ実行しようとする前に、斉彬は天保山で軍事練習中に急な病でこの世を去ってしまう。

この内勅に基づく島津斉彬の精神を継ごうというのが精忠組の基本精神だった。
その後時代は安政の大獄となる。

同年9月精忠組諸氏は、水戸藩の過激派と連携して井伊直弼間部詮勝を襲撃しようとする計画を立てる。
主な面々は、樺山三円有村雄介次左衛門兄弟、海江田武次(このときは有村俊斉)、吉井幸輔そして大久保利通などである。
彼らは脱藩をして計画を実行しようとしていた。
この計画を察知した藩主島津茂久は父の久光に相談し、論書を与えることにした。
その中の一文に
「万一時変当来の節は、第一 順聖院様御深志を貫き、以って国家奉護、天朝に忠勤を抽んずべき心得に候」とある。
これは斉彬の遺志を継承するという精忠組の理念、目的を藩主自らが認め、藩是とすることを誓約したものだった。

藩主自らが自分たちの行動を承認してくれたということは大久保達にとってはかなりの感激であったろう。
これは裏には島津久光の国家改革にともなう自らの地位を確固たるものにしようとする構想が在り、精忠組のそのエネルギーを取り込んで役立てようとしていたのである。

なにはともあれこれにより精忠組は藩公認の結社となり、藩政に深くかかわって行くことになる。
ちなみに、この時の島津茂久の諭書の宛所が「誠忠士面々江」となっていたため、後に誠忠組(精忠組)と言われるようになる。
元々が彼ら自身は組織の名称を付けていないので「誠忠組」なのか「精忠組」なのかは正解は無いようである。
大久保利通はその日の日記に「精忠士面々江」と記しているので現在のどっちなのか?という議論がある。


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