2008年07月15日

武市瑞山 土佐勤王党の結成

1861年(文久元年)武市瑞山は江戸に出る。

1856年(安政3年)に志学館に入門していらい5年ぶりの江戸だった。
江戸はペリーの来航以来すっかり様変わりしており、時代が大きく動いているのは誰の目から見ても明らかであった。

今回の武市の江戸出府は盟友 大石円の招請によるものだった。
大石は藩の命を受け、洋学研究の指名を受けており、江戸にて勝海舟に入門、長州や薩摩の志士らと盛んに交流をしていた。

江戸に来た武市を大石は知己の者たちに紹介していった。

安政の大獄後、桜田門外の変を経て各藩の若者たちの心は猛っていたときである。
誰もが多くの人物と交流し、新しいものに興味を示し、様々な考え方をもっていた。

そんな中、武市は長州の久坂玄瑞らと知遇を得た。
久坂等から吉田松陰の考え方や教えを聞き、彼らと共に時勢を語り合った。

大石と武市はその中である行動を起す。

土佐勤王党を立ち上げるのである。

このとき大石が綴った盟約文にはこう書いてある。
「老公かく有難き御心におわしますを、などこの罪には落ち入りたまいぬる。君辱めを受ける時は臣死すと。況や皇国の今にも衿を左にせんを他に見るべき。かの大和魂を奮い起こし、異性兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、あい謀りて国家興復の万一に稗補せんとす。錦旗もしひとたび揚がらば、団結して水火をも踏むとここに神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患いをも払わんとす。」とある。

ここに言う老公とは、土佐前藩主、山内容堂のことである。
盟約文中にもあるように、容堂の志を継ぐとある。
武市は終生、藩に対する忠誠は尋常だった。こと容堂に対する心酔ぶりは異常で最後の最後まで藩のため、容堂のためと生きていた。

片や容堂は佐幕姿勢を持ちながら、自藩の生きる道を探るような動きをしていた。
当時の土佐藩では土佐勤王党などが出現する事自体が考えられないものであった。
こうした容堂との考え方の齟齬が、その後の武市を悲劇を生むことになる。

江戸にて土佐勤王党を立ち上げた武市は9月には土佐に戻る。

土佐にても加盟者が募られ多く者が参加する。その多くは郷士であり、積年の辛い思いが彼らを奮い立たせていたのだろう。
武市はそんな彼らの思いを受けながら生きていくことになる。

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