2008年07月11日
五代友厚 日本資本主義の開拓者
1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)にかけて江戸幕府は上海に4回にわたり使節団を派遣している。
これは外国貿易調査や各種探索が目的であった。
この第一次の上海使節団の中に長州藩高杉晋作がいたことは誰しもが知っていることであろう。
重要なのは高杉のほかに佐賀藩氏 中牟田倉之助、薩摩藩士 五代友厚がいたことである。
高杉は五代から薩摩藩の軍事情勢、外国貿易に関する話を聞き大いに発奮、そして上海の地では中牟田から英語を学びながら現地の人の話を聞き、藩には無断ではあったが蒸気船購入の交渉をするに至っている。
これは偏に同じ使節団の中にいた中牟田と五代の影響が強かったためであろう。
では五代友厚とはどんな人だったのだろう。

五代友厚は1836年(天保6年)薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷に生まれている。幼名は徳助。通称才助。
幼少より海外に興味が強かったということらしい。
1858年(安政4年)藩命として長崎海軍伝習所に学ぶ。
この伝習所において航海・砲術・測量・数学などを学び、オランダ式海軍技術を会得する。
1862年(文久2年)藩主の命令により海外視察のため上海に密航もした。
このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許されている。
そして欧州視察後の1863年(文久3年)薩英戦争が起こる。
五代は寺島宗則とともに藩船の支配役だったが、天佑丸が拿捕され、捕虜となってしまう。
このときの技術の違い、文化の違いに五代は、開国修好・富国強兵に傾倒していき、「五代才助上告書」を藩主に提出。
この上告書にて開国貿易、海外留学生派遣の必要性を訴え、藩論を攘夷から開国へ転換させる役割を果たしている。
1865年(元治2年)グラバーの仲介によりイギリスへの藩留学生14名を引き連れて鹿児島を出航する。
途中各地の情勢を見聞しつつロンドンに向かった。
しかし五代の真の役割は留学ではなく、倒幕のために必要な武器の調達であった。
五代はこの仕事をこなし、帰国の途につく。
このときのヨーロッパ訪問が五代の中に更に強く、国力の増強には産業の発展と貿易にあることを認識するのだった。
薩長同盟締結の際は坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎らとともに勤王運動を行い協力をしている。
1868年(明治元年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件などの外交処理にあたった。
また、大阪に造幣寮を誘致した。
1869年(明治2年)の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。
薩長藩閥政府との結びつきが強く、1875年(明治8年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。
東の渋沢栄一と並び称される五代が51才の若さで亡くなったこ とは、大阪にとってまことに不幸であった。
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これは外国貿易調査や各種探索が目的であった。
この第一次の上海使節団の中に長州藩高杉晋作がいたことは誰しもが知っていることであろう。
重要なのは高杉のほかに佐賀藩氏 中牟田倉之助、薩摩藩士 五代友厚がいたことである。
高杉は五代から薩摩藩の軍事情勢、外国貿易に関する話を聞き大いに発奮、そして上海の地では中牟田から英語を学びながら現地の人の話を聞き、藩には無断ではあったが蒸気船購入の交渉をするに至っている。
これは偏に同じ使節団の中にいた中牟田と五代の影響が強かったためであろう。
では五代友厚とはどんな人だったのだろう。

五代友厚は1836年(天保6年)薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷に生まれている。幼名は徳助。通称才助。
幼少より海外に興味が強かったということらしい。
1858年(安政4年)藩命として長崎海軍伝習所に学ぶ。
この伝習所において航海・砲術・測量・数学などを学び、オランダ式海軍技術を会得する。
1862年(文久2年)藩主の命令により海外視察のため上海に密航もした。
このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許されている。
そして欧州視察後の1863年(文久3年)薩英戦争が起こる。
五代は寺島宗則とともに藩船の支配役だったが、天佑丸が拿捕され、捕虜となってしまう。
このときの技術の違い、文化の違いに五代は、開国修好・富国強兵に傾倒していき、「五代才助上告書」を藩主に提出。
この上告書にて開国貿易、海外留学生派遣の必要性を訴え、藩論を攘夷から開国へ転換させる役割を果たしている。
1865年(元治2年)グラバーの仲介によりイギリスへの藩留学生14名を引き連れて鹿児島を出航する。
途中各地の情勢を見聞しつつロンドンに向かった。
しかし五代の真の役割は留学ではなく、倒幕のために必要な武器の調達であった。
五代はこの仕事をこなし、帰国の途につく。
このときのヨーロッパ訪問が五代の中に更に強く、国力の増強には産業の発展と貿易にあることを認識するのだった。
薩長同盟締結の際は坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎らとともに勤王運動を行い協力をしている。
1868年(明治元年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件などの外交処理にあたった。
また、大阪に造幣寮を誘致した。
1869年(明治2年)の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。
薩長藩閥政府との結びつきが強く、1875年(明治8年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。
東の渋沢栄一と並び称される五代が51才の若さで亡くなったこ とは、大阪にとってまことに不幸であった。
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