2008年07月10日

高杉晋作 奇兵隊ができるまで

1862年(文久2年)長州藩は藩論を攘夷で統一する。
これは外国嫌いの孝明天皇の意を取り入れたもので、吉田松陰以来長らく長州の中にあった日の本を守るために立ち上げれ!という考えが藩論を攘夷で統一するに至らせた。

翌1863年(文久3年)孝明天皇は将軍 徳川家茂を呼び、攘夷の期限を5月10日と定めた。

攘夷の急先鋒長州藩は5月10日が来ると馬関沿岸から関門海峡を通過する外国船に向かい発砲し気勢をあげた。

しかし、これには各国共に黙ってはいなかった。
6月1日アメリカ軍艦は報復をする。長州藩軍艦2隻が轟沈、1隻が大破。
続いて6月5日にはフランス軍艦が馬関の砲台を破壊され、上陸を許し集落を焼き討ちされたのだ。

この圧倒的な戦力の違いをまざまざと見せ付けられた藩主 毛利敬親は憤慨する。
このままでは長州が夷敵に乗っ取られる。

毛利敬親高杉晋作を呼び何か対策はないか尋ねます。

高杉はこの時24歳。
長州藩の名門高杉家の嫡男で、松下村塾の逸材、前年には清国、上海などを視察したりした長州藩のエリートです。

しかし藩首脳部と攘夷をめぐり意見が対立しており、3月からは10年間の暇乞いをし、剃髪して「東行」と称していました。

呼び出された高杉は藩主に対し即答します。
「願わくば馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一策あり。有志の士を募り一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」。

高杉は自身に奇兵隊という遊撃軍を編成することを藩主に提案したのです。
毛利敬親はこれを承認、早速高杉を馬関惣奉行手元役に任ずるのだ。
馬関に赴いた高杉は商人 白石正一郎を訪ね、6月7日から8日にかけ白石邸を本拠地として奇兵隊を結成した。

高杉が奇兵隊をどんな軍隊にしたかったのか。
それは藩主 毛利敬親に提案したとおりのものだった。
高杉のこの呼びかけに6月10日の時点での参加希望者は60名ほどで、庶民の入隊希望者が多かったという。

では高杉は本当に奇兵隊で戦えると思っていたのか?
どうやらそれは少し違っていたようである。
高杉は民衆の団結力というエネルギーを外敵というものに向け兵力として使いたかったのだ。
現に奇兵隊の中には身分差はあり、士庶の区別はあったという。
奇兵隊以後、長州には様々な隊が生まれる。その数分かるだけでも400はあったらしい。

この時点で高杉の武士だけの動員兵力よりも、大きな民兵を確保することには成功したのだ。

そして高杉のもう一つのねらい。
藩の正規軍の意識改革。
当然いままで戦は武士の仕事、野良仕事をする庶民には戦は出来ないなどという、良く言えば自負、悪く言えば驕りがあった。
これが奇兵隊などという庶民でも参加できる軍隊が出来たことにより、正規軍は対抗意識が芽生え意識改革が進む。

高杉は精鋭100人を集め「長門有志先鋒隊」とした。
共に本陣を阿弥陀寺に置き、門前には「長門有志先鋒隊」「長門有志奇兵隊」とした。
両隊共に有志という文字が入っているところが松下村塾の門弟らしい。

しかし、外国艦隊との戦い以後、戦がない性格の異なるこの2隊の若者は小競り合いおこしてしまう。

高杉は2隊を掌握できなかった責任を感じ藩主に切腹を申し出る。
だが藩主世子は責任を事件を起した当事者に押し付け、高杉には切腹をさせなかった。
しかし、一応は奇兵隊総督の身分を免ぜられる形となり、僅か3ヶ月で奇兵隊を去っている。

隊を去った高杉ではあるが奇兵隊への愛着は強かったようで、禁門の変後、藩内で正義派と俗論派が対立した際には自身の身の危険を感じたとき、友人に宛てた手紙で自分の墓碑銘を「奇兵隊開闢総督」「毛利家恩古の臣」と刻むように頼んでいる。

高杉は奇兵隊の創設者と、毛利家譜代の家臣という誇りを持っていたようである。

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