2008年07月05日

橋本鉄猪 我らは王臣

岩倉具視を中岡に紹介した男 橋本鉄猪
橋本鉄猪は1835年(天保6年)高岡郡佐川郷の深尾家家臣橋本喜問太の長男として生まれる。名を有蔵。のち変名で大橋慎三と名乗る。

1861年(文久元年)武市瑞山により土佐勤王党が結成されると鉄猪は139番目に加盟しています。
加盟に関しての時期は詳しくは分からないが、高知城下から島村寿之助が加盟連名書を佐川へ持ち込んだ時に同郷の井原応輔らと共に加盟したのではないかと思われる。
鉄猪は勤王党に加盟した頃に一度脱藩を企てましたが、武市瑞山に説得されて脱藩を中止している。
1862年(文久2年)の姉小路公知暗殺事件の時には上洛して刺客の探索に尽力した。

1863年(文久3年)8.18の政変が起こると時勢は尊攘派排除の動きが強くなり、土佐においても土佐勤王党への弾圧が開始されると佐川郷の勤王党員は家老深尾鼎により親類預けなどの謹慎処分を受け、鉄猪も勤事控自宅謹慎となっています。
その後、1864年(元治元年)禁門の変が起こると、鉄猪は8月14日浜田辰弥那須盛馬井原応輔池大六と共に脱藩したのです。
鉄猪らは長州三田尻の招賢閣に入る。
しかしこの頃の長州藩は藩論確立や幕府の長州征伐の情報も入っており混乱していました。
禁門の変により、久坂玄瑞入江九一寺島忠三郎など主だった者は討死にしており、桂小五郎も行方知れずになっていた。

そこで橋本鉄猪らは大坂に出ることにするのです。
目的は集結する幕府軍を混乱させる為に大坂城を焼き討ちする計画に加わる為でした。
しかしこの計画は新撰組により感づかれ、1865年(元治2年)鉄猪らは新撰組の急襲を受け、大和国十津川郷に逃れ、この時に名前を大橋慎三と改名しています。

その後、橋本鉄猪は京へ戻ります。

鉄猪は1866年(慶応2年)どんな経緯かは分かりませんが、入京して岩倉具視と面会しています。
このときに岩倉の見識の高さに驚き、心酔した鉄猪は中岡慎太郎を岩倉に紹介します。
これが王政復古の大号令に繋がっていくのです。

中岡は坂本龍馬を岩倉に紹介し、時代は次第にある方向性を見つけ出していきます。

1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると、橋本鉄猪田中光顕と共に陸援隊の副長となります。
そんな中あの悲劇が起こります。

近江屋襲撃事件。坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたあとは陸援隊の隊務を処理しています。
12月8日には中岡が生前より長州藩士 伊藤俊輔らと計画していた鷲尾隆聚を擁して紀州高野山で挙兵する作戦を陸援隊として実行する。
これには岩倉具視中山忠能らも賛同しており、鉄猪は参謀として活躍します。
そして大政奉還後の徳川家の辞官問題で鳥羽伏見の戦いがはじまり、鉄猪ら陸援隊士は京都の朝廷軍と相応して紀州や大坂の幕府軍を牽制するなどの活躍を見せます。

維新後の鉄猪は政府に出仕して諸官を歴任しています。
しかし、鉄猪は1872年(明治5年)6月2日に急病により病没しています。
橋本鉄猪 享年38歳でした。

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