2008年06月08日

来原良蔵 志と逸れた死

桂小五郎の義弟 来原良蔵
1829年(文政12年)長州藩の福原市左衛門の子として生まれ、来原良左衛門の養子となる。
藩校明倫館にて学び、1851年(嘉永4年)江戸に行き、安積艮斎に従学している。
翌年には萩に戻ってくるのだが、江戸において吉田松陰の東北遊歴を支援して譴責を受け、一方、桂小五郎らと交わり、桂の妹ハルを妻としている。
1853年(嘉永6年)6月ペリーが浦賀に来航すると江戸に赴き、浦賀の形勢を視察し、森重武兵衛に水軍砲術を学ぶことになる。
おそらく外国艦隊を見て脅威を感じたのだろう、1854年(安政元年)には来島又兵衛らと忠義会を結んで誓約し、ついで相模警衛の任についた。
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助の門に入って合薬製造掛となり、操銃を習ったり洋式軍学を積極的に学んでいく。

1856年(安政3年)周布政之助らの嚶鳴社復興に参加し、1858年(安政5年)御手当方内用掛となり、長崎へ出張して長崎海軍伝習に参加。
1859年(安政6年)明倫館助教兼兵学科総督となり、山田亦介と軍制改革に尽した。
また、長州藩の西洋式銃陣操練に当たり、保守派(旧来の銃砲、弓、鑓、兵術家)の妨害にあいつつ、軍制規則制定、教練の実行などに功績を挙げた。
西洋銃陣の改革のため1860年(万延元年)御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。

1862年(文久2年)徳地宰判の民情を視察、2月公武周旋のため熊本と鹿児島へ出張、3月上京して留まり、長井雅楽航海援略策を除くため奔走した。
しかし、江戸に行って横浜の外国公使館の襲撃を謀ったが失敗、藩世子に過激をいさめられてしまう。
また幕府より長井雅楽航海遠略策に賛同したと批判されるという半ば志と違うことで責めをうけてしまう。

結果、長州藩江戸藩邸の自室で自刃してしまうことになる。
来原良蔵 享年34歳。
彼の死を誰よりも悲しんだのは義兄でもある桂小五郎であった。


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