2008年06月07日

周布政之助 松陰の影のサポーター

吉田松陰高杉晋作の影のサポーター的存在の周布政之助
1823年(文政6年)父・周布吉左衛門の五男として生まれる。
生まれてすぐに父と長男があいつぐように歿し、ほかの兄たちも他家への養子が決まっていたため、政之助は生後6ヵ月で末弟ながら周布家の家督を相続することになるのだ。

当然藩への届出も間に合わず、151石が減ぜられて68石になってしまう。
その後は順調に明倫館に通い、20歳のとき居寮生となり、また来原良蔵松島剛三らと嚶鳴社を結成。
1847年(弘化4年)24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢される。

しかし周布は天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵であった坪井九右衛門派の椋梨らと対立することになるのだ。
周布は母親と親戚だったためもあるのか、村田清風に師事していたので、村田清風の路線を継ぎ財政再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力していく。

また桂小五郎高杉晋作ら、吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心であった。
藩内の派閥争いに敗れて、一時は失脚した。しかし、その実直な性格から多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立った。
1858年(安政5年)安政の大獄中、藩使として朝廷に密かに入り、開国止むを得ないことを入説した航海遠略策で幕府との協調策を進めたのだが、幕政改革に限界をみた周布は桂小五郎らと反対派に回った。
松陰の過激な行動を制するために色々と奔走もしている。
獄に入れることにより幕府の目に付かないような努力までしているのだ。

周布は本来は、攘夷の愚を知る開国論者であり、長州藩論の主流となった長井雅楽航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一のためにあえて攘夷を唱え、1861年(文久元年)長井雅楽航海遠略策を阻止しようとして勝手に任地を離れたために、翌1862年(文久2年)逼塞を命ぜられる。

周布は、酒癖が悪かったともいわれ、また愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こし、たびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、1862年に土佐藩前藩主山内容堂に対し暴言を吐き謹慎となった。その際、名を「麻田公輔」と改めた。

1863年(文久3年)8・18の政変で藩が京都を追われた後、死を覚悟して大坂に行き、事の収拾に当たろうとしたが、藩命で召還され、1864年(元治元年)酒によって入獄中の高杉晋作を訪ねた罪でまた逼塞を命ぜられることになる。

禁門の変の時には上京には猛反対をしたのだが止めることは出来ず、結果長州藩は大敗し、第1次長州征伐に繋がっていってしまう。
桂が行方不明、久坂などの松陰の門弟たちが多く死んでしまったことにより、責任を感じながらも事態の収拾に奔走した。
しかし、藩政の実権を次第に椋梨ら反対派へ奪われることとなり、その責任を感じた周布は切腹をしてしまう。

周布政之助 享年42歳。


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