2008年06月06日
後藤象二郎 土佐の舵取り
土佐藩の高知城下にて上士 後藤助右衛門の長男として生まれた後藤象二郎。
将来共に土佐を背負い活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んでいる。
土佐には独特の身分差別があり、上士と郷士の差は激しかった。

後籐たち上士はその傲慢な態度から郷士達の目の仇にされていたのだ。
無理もない話しである。
1858年(安政5年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍するのだが、翌1862年(文久2年)に吉田東洋が土佐勤王党の刺客、那須信吾、大石団蔵らに暗殺されることにより、土佐藩は尊王攘夷へと流れていくことで、拠り所を失った後藤は失脚するのである。
しかし、1863年(文久3年)8・18の政変により尊王攘夷の急先鋒の長州藩が失脚すると、時代は再び公武合体へと傾く。
安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行うようになる。
後藤もこれにより役職を得て、また前藩主山内容堂の信頼を得たのもこの頃だと思われる。
この年に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。
元治元年(1864年)に、大監察に昇進した。後藤達は叔父・吉田東洋の仇とばかりに土佐勤王党を責める。
武市は投獄され、拷問こそ受けなかったが他の志士達が拷問を受けて遂に自白し、武市は切腹となる。
この武市の死により、土佐勤王党は事実上消滅した。土佐は完全に公武合体に統一された。
その後後藤象二郎は参政として藩の実権を握るようになります。
後藤は殖産興業の機関として開成館を設立。自ら総裁として中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに上海に買い付けに出向くなどしました。さらに長崎に開成館の出張所として土佐商会を建設し、岩崎弥太郎を責任者として置きます。
この頃後藤は、土佐藩の文明的な遅れや財政難などの危機を感じていました。
時代は薩摩、長州が同盟したことにより倒幕に大きく傾いており、幕府の存亡も危うくなっていたときです。
公武合体など夢のような話になってきていたのです。
1867年(慶応3年)後藤は公武合体論から意見を変え、長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行うことを決意します。
後藤から見れば龍馬は、師であり時代の最先端を行くものでした。
しかし叔父である吉田東洋の仇・武市の同胞、龍馬から見れば武市端山をはじめ多くの郷士達を死に追いやった張本人であったが、龍馬も後藤とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。
会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。
徳川の勢力を温存したまま天皇を中心とした国家づくりを目指すと同時に、山内家にも恩義を感じていた後藤はさっそく山内容堂にこれを提案。容堂から将軍徳川慶喜に大政奉還させるよう進言します。
そして見事1867年(慶応3年)大政奉還となる。
後藤象二郎はその功績を認められ目覚しい昇進を見せます。
しかし後藤の協力者であった坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かに暗殺。また、土佐藩の独走を許すはずのない薩長の勢力は、幕府側との戦いである戊辰戦争へと踏み切っていくのです。
後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。
だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが明治維新への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。
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後籐たち上士はその傲慢な態度から郷士達の目の仇にされていたのだ。
無理もない話しである。
1858年(安政5年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍するのだが、翌1862年(文久2年)に吉田東洋が土佐勤王党の刺客、那須信吾、大石団蔵らに暗殺されることにより、土佐藩は尊王攘夷へと流れていくことで、拠り所を失った後藤は失脚するのである。
しかし、1863年(文久3年)8・18の政変により尊王攘夷の急先鋒の長州藩が失脚すると、時代は再び公武合体へと傾く。
安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行うようになる。
後藤もこれにより役職を得て、また前藩主山内容堂の信頼を得たのもこの頃だと思われる。
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武市は投獄され、拷問こそ受けなかったが他の志士達が拷問を受けて遂に自白し、武市は切腹となる。
この武市の死により、土佐勤王党は事実上消滅した。土佐は完全に公武合体に統一された。
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1867年(慶応3年)後藤は公武合体論から意見を変え、長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行うことを決意します。
後藤から見れば龍馬は、師であり時代の最先端を行くものでした。
しかし叔父である吉田東洋の仇・武市の同胞、龍馬から見れば武市端山をはじめ多くの郷士達を死に追いやった張本人であったが、龍馬も後藤とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。
会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。
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そして見事1867年(慶応3年)大政奉還となる。
後藤象二郎はその功績を認められ目覚しい昇進を見せます。
しかし後藤の協力者であった坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かに暗殺。また、土佐藩の独走を許すはずのない薩長の勢力は、幕府側との戦いである戊辰戦争へと踏み切っていくのです。
後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。
だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが明治維新への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。
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