2008年06月05日
坂本龍馬と桂小五郎
幕末の人気者坂本龍馬と桂小五郎。
この二人性格が全然違うのだが、何故か仲が良かったらしい。

おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。

この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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この二人性格が全然違うのだが、何故か仲が良かったらしい。

おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。

この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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