2008年06月03日
安島帯刀 水戸の両田の後を担う
水戸の両田の亡き後、一身に水戸藩を支えた男 安島帯刀。
戸田三右衛門忠之の次男に生まれ、母方の叔父・安島彦之允信順の養子となった。
三河譜代の名門の出自だが、佐竹氏旧臣の血筋である母方・安島氏の家督を継いでいる。
初名は弥次郎と名乗り元服して諱を忠誨とする。安島氏を継いでからは諱を信立と改めた。
1829年(文政12年)水戸藩主継嗣問題が起こると兄・戸田忠太夫とともに徳川斉昭擁立に奔走する。
1836年(天保7年)には家督を継ぎ、1840年(天保11年)勘定奉行に昇進し、ついで小姓頭取となる。
しかし、1844年(弘化元年)斉昭が罰せられると雪冤に奔走し役禄を召し上げられ謹慎となる。
斉昭への譴責が緩むにつれて、1853年(嘉永6年)ペリーの来航にともない斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、1856年(安政3年)安島は再び登用されて御側用人となり、藩政改革や斉昭の幕政を補佐し功績を残すことになる。
斉昭が幕府の命により海防参与になると、実兄・戸田忠太夫が幕府海防掛、安島帯刀が幕府海防参与秘書掛を命ぜられる。
水戸藩の官僚として活躍し、藩士の教育行政にあたる学校奉行や日本初の軍艦である旭日丸を建造監督にあたり、幕府より恩賞を受けた。
実兄・戸田忠太夫や藤田東湖が安政の大地震により亡くなったため、1858年(安政5年)斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられることになる。
また、家老昇進にあたっては身分に相応しい名として、朝廷の正式な官職に次ぐ由緒のある百官名、帯刀を称する様になったのだ。
13代将軍徳川家定の死により、将軍継嗣を巡って井伊直弼や松平讃岐守といった譜代大名や家門の門閥層が徳川の嫡流に近い紀州藩の藩主徳川慶福を擁立して南紀派を形成していた。
かたや徳川斉昭を中心に親藩にて家門筆頭たる福井藩の松平春嶽、雄藩の薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城などの幕末の四賢侯が英邁で聞こえる斉昭の7男一橋慶喜を奉じて一橋派を形成して対抗していた時であった。
安島帯刀も当然ながら主君斉昭の実子である慶喜を将軍とすべく奔走していた。
安島帯刀は一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中根雪江、橋本左内儒者の梅田雲浜、公家の家臣 飯泉喜内、その他薩摩藩士の西郷隆盛、土佐脱藩浪士坂本龍馬、五摂家筆頭の近衛家老女村岡と通じ、水戸徳川家の縁戚にあたる鷹司家や三条家にも支持を得んとするなど朝廷内工作にも動いた。
安島自身も黒船来航など西欧列強の脅威がふりかかる国難に対処し得る将軍として慶喜に期待をしており、慶喜のことを「徳川の流れを清ましめん御仁」と評している。
こうしたことから、安島帯刀は水戸藩内に留まらず、幕府の守旧派からも憎まれる存在となっていった。
その様な折に朝廷が水戸藩に幕府への尊皇攘夷を促す様に命じた戌午の密勅に関与したとされ、幕府評定所より召還され軟禁されることとなる。
水戸藩主徳川慶篤は御三家の家老が幕府に囚われるなど前代未聞ですぐに解放する様に要請したが、適わずに、幕府の尋問により、安島は無罪とされたものの、大老・井伊直弼より再審議を命じられ、さらに無罪とされると井伊自ら安島に切腹を命ずることとなった。
この辺りに井伊の専横さが窺えるところである。
『水戸藩史料』には「信立の審を受くる挙止慎重言句もせず罪を一身に受け義によりて屈せず幕府有司も皆其の器識徳量に感称し其の死を惜しまざるはなし」と伝えている。
1859年(安政6年)8月27日、安政の大獄により駒込にある九鬼家の三田藩藩邸において安島帯刀は切腹し、遺体は甥の水戸藩家老 戸田銀次郎宅に収容され、遺族に引き渡された。
安島帯刀 享年48歳。水戸藩は動乱にまた一つ大切な志を失ったのである。
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三河譜代の名門の出自だが、佐竹氏旧臣の血筋である母方・安島氏の家督を継いでいる。
初名は弥次郎と名乗り元服して諱を忠誨とする。安島氏を継いでからは諱を信立と改めた。
1829年(文政12年)水戸藩主継嗣問題が起こると兄・戸田忠太夫とともに徳川斉昭擁立に奔走する。
1836年(天保7年)には家督を継ぎ、1840年(天保11年)勘定奉行に昇進し、ついで小姓頭取となる。
しかし、1844年(弘化元年)斉昭が罰せられると雪冤に奔走し役禄を召し上げられ謹慎となる。
斉昭への譴責が緩むにつれて、1853年(嘉永6年)ペリーの来航にともない斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、1856年(安政3年)安島は再び登用されて御側用人となり、藩政改革や斉昭の幕政を補佐し功績を残すことになる。
斉昭が幕府の命により海防参与になると、実兄・戸田忠太夫が幕府海防掛、安島帯刀が幕府海防参与秘書掛を命ぜられる。
水戸藩の官僚として活躍し、藩士の教育行政にあたる学校奉行や日本初の軍艦である旭日丸を建造監督にあたり、幕府より恩賞を受けた。
実兄・戸田忠太夫や藤田東湖が安政の大地震により亡くなったため、1858年(安政5年)斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられることになる。
また、家老昇進にあたっては身分に相応しい名として、朝廷の正式な官職に次ぐ由緒のある百官名、帯刀を称する様になったのだ。
13代将軍徳川家定の死により、将軍継嗣を巡って井伊直弼や松平讃岐守といった譜代大名や家門の門閥層が徳川の嫡流に近い紀州藩の藩主徳川慶福を擁立して南紀派を形成していた。
かたや徳川斉昭を中心に親藩にて家門筆頭たる福井藩の松平春嶽、雄藩の薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城などの幕末の四賢侯が英邁で聞こえる斉昭の7男一橋慶喜を奉じて一橋派を形成して対抗していた時であった。
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安島帯刀は一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中根雪江、橋本左内儒者の梅田雲浜、公家の家臣 飯泉喜内、その他薩摩藩士の西郷隆盛、土佐脱藩浪士坂本龍馬、五摂家筆頭の近衛家老女村岡と通じ、水戸徳川家の縁戚にあたる鷹司家や三条家にも支持を得んとするなど朝廷内工作にも動いた。
安島自身も黒船来航など西欧列強の脅威がふりかかる国難に対処し得る将軍として慶喜に期待をしており、慶喜のことを「徳川の流れを清ましめん御仁」と評している。
こうしたことから、安島帯刀は水戸藩内に留まらず、幕府の守旧派からも憎まれる存在となっていった。
その様な折に朝廷が水戸藩に幕府への尊皇攘夷を促す様に命じた戌午の密勅に関与したとされ、幕府評定所より召還され軟禁されることとなる。
水戸藩主徳川慶篤は御三家の家老が幕府に囚われるなど前代未聞ですぐに解放する様に要請したが、適わずに、幕府の尋問により、安島は無罪とされたものの、大老・井伊直弼より再審議を命じられ、さらに無罪とされると井伊自ら安島に切腹を命ずることとなった。
この辺りに井伊の専横さが窺えるところである。
『水戸藩史料』には「信立の審を受くる挙止慎重言句もせず罪を一身に受け義によりて屈せず幕府有司も皆其の器識徳量に感称し其の死を惜しまざるはなし」と伝えている。
1859年(安政6年)8月27日、安政の大獄により駒込にある九鬼家の三田藩藩邸において安島帯刀は切腹し、遺体は甥の水戸藩家老 戸田銀次郎宅に収容され、遺族に引き渡された。
安島帯刀 享年48歳。水戸藩は動乱にまた一つ大切な志を失ったのである。
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