2008年06月01日
吉田稔麿 松陰が信頼した秀才
松下村塾四天王の一人吉田稔麿
1841年(天保12年)長州藩下級武士の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。
吉田姓は自称で、幼名は栄太郎。
久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に仕え、1856年(安政3年)に帰郷し、11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。
真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿の三人を松陰門下の三秀と呼び、入江九一を入れて「松下村塾四天王」と称され、松下村塾の発展に貢献していく。
松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」
『実甫(久坂)の才は縦横無尽なり。暢夫(高杉)は陽頑、無逸(吉田)は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり常にこの三人を推すべし』
と高く評価した。
1857年(安政4年)藩命で江戸に出て、久坂玄瑞らとともに幕府の最新情報を藩に伝える傍ら、桂小五郎とも親交し、錬兵館で神道無念流の剣を学んでいく。
1858年(安政5年)に松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師・吉田松陰の元を一旦離れることになる。
稔麿自身は離れたくはなかったのだが、時勢が公武合体へと動き始めており、幕府の攘夷派の取締りが厳しくなっていたためやむ得ずいったん距離を置くことにしたのである。
しかしこれが師である松陰との永遠の別れになるとは思ってもいなかったであろう。
1859年(安政6年)ついに安政の大獄にて吉田松陰が処刑されてしまう。
松陰の死後、暫く志士としての活動を控えていたが、突如脱藩して江戸へむかう。おそらく心の中の閉じ込めておいた炎が再び燃え始めたのであろう。
その目的は旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わることであった。
この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれている。
1862年(文久2年)長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩し、京で行なわれた松陰の慰霊祭に参加している。
その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じていくこととなる。
1863年(文久3年)7月には、高杉晋作が作った奇兵隊の結成に参加。
士籍に加えられた。
元々足軽の身分だった稔麿は身分階級の差別に苦しんでいたこともあり、被差別部落の有志を集めて「屠勇隊」を設立する。
「人はすべて平等である」 という松陰の思想を具現化した行動だった。
奇兵隊の引き起こした朝陽丸事件や8・18の政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作に奔走すのだ。
1864年(元治元年)6月5日池田屋事件、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受ける、助けを求めに河原町の長州藩邸まで行くが門は硬く閉ざされたままであり、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の会津藩士に出くわして奮戦するも討死した。
吉田稔麿 享年24歳。
あまりにも惜しまれる死であった。
松下村塾において頭脳明晰、志も高い稔麿は文武両道に秀でていた。
もう少し永く生きていたなら時代はもっと早くに安定していたのかもしれない。
吉田稔麿の死後1ヶ月、同胞の久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一らも蛤御門の変にて皆、散っていくのである。
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1841年(天保12年)長州藩下級武士の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。
吉田姓は自称で、幼名は栄太郎。
久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に仕え、1856年(安政3年)に帰郷し、11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。
真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿の三人を松陰門下の三秀と呼び、入江九一を入れて「松下村塾四天王」と称され、松下村塾の発展に貢献していく。
松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」
『実甫(久坂)の才は縦横無尽なり。暢夫(高杉)は陽頑、無逸(吉田)は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり常にこの三人を推すべし』
と高く評価した。
1857年(安政4年)藩命で江戸に出て、久坂玄瑞らとともに幕府の最新情報を藩に伝える傍ら、桂小五郎とも親交し、錬兵館で神道無念流の剣を学んでいく。
1858年(安政5年)に松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師・吉田松陰の元を一旦離れることになる。
稔麿自身は離れたくはなかったのだが、時勢が公武合体へと動き始めており、幕府の攘夷派の取締りが厳しくなっていたためやむ得ずいったん距離を置くことにしたのである。
しかしこれが師である松陰との永遠の別れになるとは思ってもいなかったであろう。
1859年(安政6年)ついに安政の大獄にて吉田松陰が処刑されてしまう。
松陰の死後、暫く志士としての活動を控えていたが、突如脱藩して江戸へむかう。おそらく心の中の閉じ込めておいた炎が再び燃え始めたのであろう。
その目的は旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わることであった。
この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれている。
1862年(文久2年)長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩し、京で行なわれた松陰の慰霊祭に参加している。
その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じていくこととなる。
1863年(文久3年)7月には、高杉晋作が作った奇兵隊の結成に参加。
士籍に加えられた。
元々足軽の身分だった稔麿は身分階級の差別に苦しんでいたこともあり、被差別部落の有志を集めて「屠勇隊」を設立する。
「人はすべて平等である」 という松陰の思想を具現化した行動だった。
奇兵隊の引き起こした朝陽丸事件や8・18の政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作に奔走すのだ。
1864年(元治元年)6月5日池田屋事件、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受ける、助けを求めに河原町の長州藩邸まで行くが門は硬く閉ざされたままであり、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の会津藩士に出くわして奮戦するも討死した。
吉田稔麿 享年24歳。
あまりにも惜しまれる死であった。
松下村塾において頭脳明晰、志も高い稔麿は文武両道に秀でていた。
もう少し永く生きていたなら時代はもっと早くに安定していたのかもしれない。
吉田稔麿の死後1ヶ月、同胞の久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一らも蛤御門の変にて皆、散っていくのである。
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