2008年05月30日
月形洗蔵 夢に描いた薩長同盟
薩長同盟は坂本龍馬中岡慎太郎の功績と思われていますが、薩長同盟の提案者は月形洗蔵ら筑前勤王党である。

福岡藩内には、月形洗蔵、黒田家重臣・加藤司書らが中心となって、組織する筑前勤王党があった。
特に月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を中止して、「ご忠義の軍勢にて、天下の魁をなさん!」と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。
1861年(文久元年)5月、藩主黒田長溥は、過激な尊攘論を展開する月形らを藩政誹謗の罪で捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他二十数名も厳しく処断した。
世にいう「辛酉の獄」である。時に時代は公武合体へ流れていた。
1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩は薩摩藩に敵意を抱いていた。
長州の品川弥二郎は下駄に「薩賊会奸」と書き付けて踏んで憎悪をあらわにしていた程である。
しかし、そのように敵対意識を持つ薩摩と長州に手を結ばせ武力討幕を実行しようとした人物がいる。
それが月形洗蔵たちである。
薩長和解は、元々は筑前勤王党の月形洗蔵、早川勇によって唱えられた。
彼らはいち早く倒幕するには一藩のみの力では無理であり、当時の強藩である薩摩と長州が手を結ぶ事が大事であると考えた。
しかし、長州藩は地位回復をねらって翌1864年(元治元年)兵を率いて禁門に迫る。禁門の変である。
会津・桑名・薩摩の藩兵と衝突した長州軍だったが、結果は惨敗で敗走した。
これに対して幕府は、朝敵として長州を伐ち、一気に権威を回復しようとし征長の勅許を受け、長州征伐に乗り出す。
そのころ福岡藩では、第一次長州征伐を前にし、保守派と勤皇派が深刻な対立を起こしていったのである。
保守派は、内乱の拡大は外悔を招くから、国内の争乱は絶対に回避すべきだとして、幕府と長州との間をとりもとうとした黒田長溥の方針に対し、長州との接触は、幕府の嫌疑を受けることになるので排除すべきだと主張した。
これに対して勤皇派は、長州征伐の阻止工作を積極的に行うべきであると主張した。
結果は勤皇派の主張が通り、加藤司書・月形洗蔵らが奔走し、西郷隆盛らと連絡を取りながら征討軍総裁に働きかけ、ついには解兵に成功した。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
このとき西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川の両人は密かに西郷に会い薩長和解を説いた。
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後、月形と早川は長州に入り、下関で再度西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ、三条実美ら8・18の政変で都落ちとなった公家たちの復権を実行しようとした。
ところが、筑前勤王党は藩内の弾圧にあう。
1865年(慶応元年)長州再征の命が下ると、五卿に対する幕府の態度が強硬となり、大宰府の五卿もいつ幕府から強制的に引き渡しを要求されるかわからない状況となってきた。
福岡藩では加藤司書が黒田長溥の不興をかって職を追われていたので、潰減の危機にあったのだ。
焦った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
当然ながら月形洗蔵たちが目指した薩長同盟も夢に帰してしまう。
しかし、月形と生前から懇意にしていた土佐脱藩者・中岡慎太郎がこの夢を引き継ぐのである。
中岡は同胞の坂本龍馬にことを話し、月形たちが描いた夢は現実のものとなっていくのである。
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福岡藩内には、月形洗蔵、黒田家重臣・加藤司書らが中心となって、組織する筑前勤王党があった。
特に月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を中止して、「ご忠義の軍勢にて、天下の魁をなさん!」と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。
1861年(文久元年)5月、藩主黒田長溥は、過激な尊攘論を展開する月形らを藩政誹謗の罪で捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他二十数名も厳しく処断した。
世にいう「辛酉の獄」である。時に時代は公武合体へ流れていた。
1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩は薩摩藩に敵意を抱いていた。
長州の品川弥二郎は下駄に「薩賊会奸」と書き付けて踏んで憎悪をあらわにしていた程である。
しかし、そのように敵対意識を持つ薩摩と長州に手を結ばせ武力討幕を実行しようとした人物がいる。
それが月形洗蔵たちである。
薩長和解は、元々は筑前勤王党の月形洗蔵、早川勇によって唱えられた。
彼らはいち早く倒幕するには一藩のみの力では無理であり、当時の強藩である薩摩と長州が手を結ぶ事が大事であると考えた。
しかし、長州藩は地位回復をねらって翌1864年(元治元年)兵を率いて禁門に迫る。禁門の変である。
会津・桑名・薩摩の藩兵と衝突した長州軍だったが、結果は惨敗で敗走した。
これに対して幕府は、朝敵として長州を伐ち、一気に権威を回復しようとし征長の勅許を受け、長州征伐に乗り出す。
そのころ福岡藩では、第一次長州征伐を前にし、保守派と勤皇派が深刻な対立を起こしていったのである。
保守派は、内乱の拡大は外悔を招くから、国内の争乱は絶対に回避すべきだとして、幕府と長州との間をとりもとうとした黒田長溥の方針に対し、長州との接触は、幕府の嫌疑を受けることになるので排除すべきだと主張した。
これに対して勤皇派は、長州征伐の阻止工作を積極的に行うべきであると主張した。
結果は勤皇派の主張が通り、加藤司書・月形洗蔵らが奔走し、西郷隆盛らと連絡を取りながら征討軍総裁に働きかけ、ついには解兵に成功した。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
このとき西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川の両人は密かに西郷に会い薩長和解を説いた。
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後、月形と早川は長州に入り、下関で再度西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ、三条実美ら8・18の政変で都落ちとなった公家たちの復権を実行しようとした。
ところが、筑前勤王党は藩内の弾圧にあう。
1865年(慶応元年)長州再征の命が下ると、五卿に対する幕府の態度が強硬となり、大宰府の五卿もいつ幕府から強制的に引き渡しを要求されるかわからない状況となってきた。
福岡藩では加藤司書が黒田長溥の不興をかって職を追われていたので、潰減の危機にあったのだ。
焦った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
当然ながら月形洗蔵たちが目指した薩長同盟も夢に帰してしまう。
しかし、月形と生前から懇意にしていた土佐脱藩者・中岡慎太郎がこの夢を引き継ぐのである。
中岡は同胞の坂本龍馬にことを話し、月形たちが描いた夢は現実のものとなっていくのである。
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