2008年05月23日

苦悩の老中 阿部正弘

幕末の一番難しいときに老中筆頭になっていた阿部正弘

阿部に対する評価はまちまちで、内政・外交の姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者として見られ、低い評価をされがちであった。


実際、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊来航から1854年(嘉永7年)日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったが、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募った挙句、何ら対策を打ち出せず時間の引き延ばしを図ろうとするなど、老中としてリーダーシップを発揮しようとする姿勢は見られないと言われている。

しかし、これは阿部個人の資質の問題ではなく、幕府の体質と当時の日本の文化文明の違いといえるものではなだろうか。

阿部の前に老中であった水野忠邦は強硬路線に反発を受け失脚しているし、後に阿部の方針を否定していた井伊直弼は幕閣どころか朝廷や国内各層の反感をも買って国内を混乱に陥れている。
こうした事を考えると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する方策であった、しかし幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は「幕府を亡ぼす者は阿部伊勢守なり」と言われるようになり、評価としては、よく言えば柔軟な人であり、悪く言えば主体性のない人だと思われる。

しかしこの激動の時代にはやはり阿部のような広く意見を求める政策は適していたのではないだろうか。

そんな阿部正弘は1819年(文政2年)第5代備後福山藩主・阿部正精の6男として生まれた。
兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐが、病に伏せがちだったため、1836年(天保7年)兄に代わり第7代藩主に就任することになる。

1843年(天保14年)25歳で老中となり、水野忠邦天保の改革の挫折により2度の失脚のたため、老中首座となる。

幕政において、1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛を設置して外交・国防問題に当たらせた。
また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲戸田氏栄松平近直川路聖謨井上清直水野忠徳江川英龍ジョン万次郎岩瀬忠震など大胆な人事登用を行っていった。

そんな中とんでもない知らせが阿倍のもとに知らされる。
1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。
ペリーは江戸幕府に対し開国と通商を求め、期限を1年としていったん帰国していく。

阿部はこの国難を乗り切るため朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。
そうこうしていると長崎にロシアのプチャーチン艦隊も来航して通商を求めてきた。

阿部は松平春嶽島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命。これが諸大名の幕政へ介入する原因となり、結果的に幕府の権威を弱めることに繋がっていく。
もはやこの時点で幕府は自力で問題を解決できる力がなかったのかもしれない。

なお阿部は異国船打払令の復活を度々諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。

結局、積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、翌、1854年(嘉永7年)ペリーの再来により日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。

これを不満に思う諸藩や志士達は激しい行動に出始める。
1855年(安政2年)攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中 松平乗全松平忠優の両名を罷免したことが、井伊直弼らの怒りをかい、孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。

こうした中、阿部は江川英龍勝海舟大久保忠寛永井尚志高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設した。
また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革に取り組んだ。

結果的には倒幕の志士達を育てるような形も見受けられるが、これも時代の流れであったのだろう。
阿部自身が悪いわけではない。

1857年(安政4年)阿部は老中在任のまま急死してしまう。
長年の心労が原因だったのかもしれない。
阿部正弘 享年39歳。時代に流されていった人だった。

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