2008年05月26日

高杉晋作 おもしろきこともなき世を

福岡の平尾山荘に匿われていた高杉晋作だったが、俗論派による正義派家老の処刑を聞きどうせ死ぬるなら志の元に死なん。
そう、吉田松陰との最後の手紙で教えを思い出し再び下関へ帰還する。

高杉晋作は倒幕にまとめるためついに、1864年12月15日、長府の功山寺でこの寺に潜んでいた三条実美ら五卿の前で 「今こそ長州男児の肝玉をご覧に入れます」 といって決起します。
高杉帰還の方をうけ四散していた同志たち伊藤俊輔井上聞多など隠れていた者たちが高杉の元に参集してきます。
伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて同時に挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、高杉は次々に俗論派を倒し、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩論を倒幕に統一することに成功する。

そんなときに行方知れずとなっていた桂小五郎が戻ってくる。
もともと高杉は戦術家ではあったが、戦略家ではなかったのかもしれない。
藩の頭に立って人を導いて行くような仕事に嫌気が差していたのだろう、桂の帰還は誰よりも悦んだ。

1865年(慶応元年)高杉は高杉家を廃嫡されて「育」扱いとされ、そして同年9月29日には藩命により谷 潜蔵と改名する。
さらに1866年(慶応2年)1月21日土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長同盟が京都薩摩藩邸で結ばれる。
一藩のみの倒幕は有り得ないということを経験してきた高杉や桂など長州の志士にとってはとてつもなく大きな後ろ盾が出来たことになる。

そして6月、第2次長州征伐がおこると、高杉は海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還する。
また、小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させるのだ。

結局、幕府軍総督小笠原壱岐守の日和見ぶり態度や、過去の幕府の諸藩いじめなど、様々な要因が起因し、諸藩が随時撤兵していってしまう。
7月には将軍徳川家茂の死去の報を受け、小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となる。

高杉自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、1867年(慶応3年)4月14日大政奉還を見ずしてこの世を去る。

高杉晋作 享年27歳。短い一生を終えました。
 「おもしろきこともなき世をおもしろく」 

伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があり、“動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし”と刻まれています。

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