2008年05月21日
高杉晋作 日の本を守るには
師・吉田松陰の死により強い倒幕の意志を固めた高杉晋作。
高杉は1861年(文久元年)3月、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船し江戸へ渡ります。
江戸に着いた高杉は藩に東北遊学の申請をし、8月には東北遊学を行うのです。
このとき佐久間象山や横井小楠と出会い交友する。
ここで忘れてはならないのが師である吉田松陰にも強く影響を与えた佐久間象山との出会いです。
高杉晋作は佐久間象山に「もっと異国を見なさい。そして知ることが大事だ」と言われます。
そして1862年(文久2年)高杉が22歳のとき、長州藩を代表して上海に渡ります。
そこで高杉の目に映った清国の姿は、後の人生に大きな影響を与えることになります。
アヘン戦争により属国と化した清国の姿。
それは今後の日本の姿を見るような気持ちになったのでしょう。
このままではいかん!日本を外国から守るにはもっと技術が必要だ。
「このままではいずれ我が日の本の国こうなってしまう。」
高杉の心の中に今までにない畏怖感が沸き起こっていた。

帰国した高杉晋作は朋友・久坂玄瑞とともに異国公使館の襲撃を企てるのだ。
これには土佐藩・武市半平太、坂本龍馬らを訪ね同盟を求めている。
「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば、、、」
結局、情報が漏れ高杉は謹慎処分となるのだが、久坂玄瑞、伊藤俊輔ら同志12人と共に品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き払うのだ。
1863年(文久3年)に高杉晋作は奇兵隊を結成する。
奇兵隊は、武士、農民や町人の区別なく、志のある者を集めた新しい考え方によって組織された軍隊で当時の日本では最も強い兵力となっていきました。
志あるものを集めるというところに吉田松陰の教えがちゃんと伝わっています。
しかし高杉晋作は奇兵隊結成2ヶ月あまりで総統を辞し、下関を後にします。
そのころ京都では薩摩藩と会津藩が結託した宮廷クーデターである8・18の政変で長州藩が追放され、1864年(文久4年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛らを説得するが容れられず、脱藩して京都へ潜伏する。
桂の説得により長州に戻ってはくるのだが、脱藩した罪により獄に入れられてしまう。
そんな中、長州藩はどんどん危機的状況に追い込まれていき遂には禁門の変を起し、敗北して朝敵となり、来島は戦死、久坂玄瑞・寺島忠三郎・入江九一らは自害してしまう。
桂も故知れずとなり、長州藩は多くの人材を失ってしまった。
残された高杉は悲しんでばかりもいられなかった。
朝敵となった長州に向け幕府連合軍が押寄せようとしていたのである。
幕府軍よりも先に4カ国連合艦隊が関門海峡に来襲、馬関戦争が起こる。
伊藤俊輔、井上聞多など反対派の意見を振り切っての開戦でしたが、結果は長州軍も頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。
開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。
和議の使者は高杉でした。
高杉は怒る井上、伊藤の両名を説得し、和議を結ぶのです。
これにより一先ず外国との脅威を免れた長州藩でしたが、まだまだ幕府軍の脅威が残っています。
長州藩には倒幕を主張する“急進派”(正義派)と“俗論派”があり。
先の禁門の変にて正義派の面々は皆死んでしまい、次第に俗論派が台頭してくると、身の危険を感じた高杉は10月には福岡へ逃れるのである。
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そうだ!高杉晋作に会いに行こう!




湯本温泉山村別館 と 別棟 温泉付き離れしぇふず
長門湯本温泉 玉仙閣
萩本陣
萩の宿・常茂恵

高杉は1861年(文久元年)3月、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船し江戸へ渡ります。
江戸に着いた高杉は藩に東北遊学の申請をし、8月には東北遊学を行うのです。
このとき佐久間象山や横井小楠と出会い交友する。
ここで忘れてはならないのが師である吉田松陰にも強く影響を与えた佐久間象山との出会いです。
高杉晋作は佐久間象山に「もっと異国を見なさい。そして知ることが大事だ」と言われます。
そして1862年(文久2年)高杉が22歳のとき、長州藩を代表して上海に渡ります。
そこで高杉の目に映った清国の姿は、後の人生に大きな影響を与えることになります。
アヘン戦争により属国と化した清国の姿。
それは今後の日本の姿を見るような気持ちになったのでしょう。
このままではいかん!日本を外国から守るにはもっと技術が必要だ。
「このままではいずれ我が日の本の国こうなってしまう。」
高杉の心の中に今までにない畏怖感が沸き起こっていた。

帰国した高杉晋作は朋友・久坂玄瑞とともに異国公使館の襲撃を企てるのだ。
これには土佐藩・武市半平太、坂本龍馬らを訪ね同盟を求めている。
「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば、、、」
結局、情報が漏れ高杉は謹慎処分となるのだが、久坂玄瑞、伊藤俊輔ら同志12人と共に品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き払うのだ。
1863年(文久3年)に高杉晋作は奇兵隊を結成する。
奇兵隊は、武士、農民や町人の区別なく、志のある者を集めた新しい考え方によって組織された軍隊で当時の日本では最も強い兵力となっていきました。
志あるものを集めるというところに吉田松陰の教えがちゃんと伝わっています。
しかし高杉晋作は奇兵隊結成2ヶ月あまりで総統を辞し、下関を後にします。
そのころ京都では薩摩藩と会津藩が結託した宮廷クーデターである8・18の政変で長州藩が追放され、1864年(文久4年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛らを説得するが容れられず、脱藩して京都へ潜伏する。
桂の説得により長州に戻ってはくるのだが、脱藩した罪により獄に入れられてしまう。
そんな中、長州藩はどんどん危機的状況に追い込まれていき遂には禁門の変を起し、敗北して朝敵となり、来島は戦死、久坂玄瑞・寺島忠三郎・入江九一らは自害してしまう。
桂も故知れずとなり、長州藩は多くの人材を失ってしまった。
残された高杉は悲しんでばかりもいられなかった。
朝敵となった長州に向け幕府連合軍が押寄せようとしていたのである。
幕府軍よりも先に4カ国連合艦隊が関門海峡に来襲、馬関戦争が起こる。
伊藤俊輔、井上聞多など反対派の意見を振り切っての開戦でしたが、結果は長州軍も頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。
開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。
和議の使者は高杉でした。
高杉は怒る井上、伊藤の両名を説得し、和議を結ぶのです。
これにより一先ず外国との脅威を免れた長州藩でしたが、まだまだ幕府軍の脅威が残っています。
長州藩には倒幕を主張する“急進派”(正義派)と“俗論派”があり。
先の禁門の変にて正義派の面々は皆死んでしまい、次第に俗論派が台頭してくると、身の危険を感じた高杉は10月には福岡へ逃れるのである。

そうだ!高杉晋作に会いに行こう!




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長門湯本温泉 玉仙閣
萩本陣
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