2008年05月20日

高杉晋作 吉田松陰との出会い

松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍をしています。

そんな門弟の中でもとりわけ人気のある人物、高杉晋作である。

高杉晋作は1839年(天保10年)萩城下菊屋横丁で長州藩士、高杉小忠太の子として生まれています。
高杉家は200石取りで萩藩の重要な役職についており、上級武士だったようです。
とりわけ幼少の頃の史書はあまり多く残っていないようですが、1846年(弘化3年)8歳の時に寺子屋・吉松塾に入り、後に高杉の親友となる久坂玄瑞と出会います。
1852年(嘉永5年)に藩校の明倫館に入学、高杉が17歳になった1857年(安政4年)のときに松下村塾に入門するのです。
これには久坂の誘いがあり、高杉は久坂より後に松下村塾に入っています。

ひとつ年下の久坂玄瑞と競って勉強し、高杉は『鼻輪も通さぬ放れ牛、束縛されない人』、久坂は『政庁に座らせておけば、堂々たる政治家』とたたえられ、のちにこの二人は松下村塾の双璧と呼ばれるようになっていきます。

このたった数年間の間に松陰は高杉を筆頭とする塾生達に志とは何ぞや!
今後の日本はどうすればいいのかなどを説いていたのでしょう。

1858年(安政5年)には藩命にて江戸へ遊学、大橋訥庵塾、昌平坂学問所で学ぶ。
しかし、高杉には水が合わなかったようで、江戸での学問は面白くないと手紙で久坂に漏らしていたようでした。


そして1859年(安政6年)安政の大獄が起こる。
師である吉田松陰が間部詮勝要撃計画の罪により捕縛され江戸へ送られてしまうのだ。
奇しくも同じ頃江戸にいた高杉は松陰の世話をしながら師との対話を行なっている。
牢獄において死を目前としながらも、己の信念を曲げない師の姿を高杉はどう見ていたのでしょうか。

高杉はその疑問を正直に松陰に手紙にて問いかけています。
「男子たる者の死」について。

松陰はこれにこう答えているのです。

死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず。
道尽き心安んずる、便ち是死所。
世に生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。
心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし


この手紙が、後の高杉の生き方に大きな影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。
魂(志)がなければ生きていても死んでいるのと同じ、死を恐れてはいけない。その先にあるものがあるのであれば。
高杉は己の志を見直す機会を得たのではないでしょうか。

しかし藩命により、高杉は帰郷を命じられます。
高杉は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目にかかりましょう」との手紙を松陰に送り、萩に戻っていくのですが、その10日後、松陰の死罪が決定し、その日のうちに処刑されてしまうのです。

突然の師・松陰の死に、悲しみと激しい怒りに高杉は、倒幕を心に誓い、それを志とします。
先の手紙で師から教わった死生観がここに行き着いてしまうのです。

松陰の死を知った高杉晋作はこの時の悲憤の思いを藩の上役・周布政之助に宛てた手紙で次のように述べている。

「ついにわが師は幕吏の手にかかって殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです」。
高杉晋作が倒幕への決意を固めた瞬間であった。

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