2008年05月19日
田中光顕 陸援隊副隊長
坂本龍馬、中岡慎太郎のサポート役で活躍した田中光顕。
田中光顕は1843年(天保14年)土佐藩の深尾鼎家臣 浜田金治充美の長男に生まれます。
最初は浜田辰弥、脱藩時に田中顕助と改名している。
顕助の父 浜田金治は父親が死ぬと弟の那須信吾を養育していたため、那須信吾はこの兄の恩に報いるために、兄の子である顕助をことのほか可愛がったようである。

顕助は成長すると城下に出て、武市道場に入門して武市半平太に師事します。
武市道場には叔父の那須信吾をはじめ、土佐各地より多くの子弟が集まっていた。
土佐の多くの志士達がそうであったように、顕助にとっても多大な影響を受けた場所であった。
そして顕助は武道だけではなく、河田小龍の墨雲洞へ入門していました。
この墨雲洞には近藤長次郎や土方久元、清岡道之助ら多くの逸材が通っており、顕助は城下へ出てよい環境で学べたといえます
1862年(文久2年)顕助は土佐勤王党に参加します。
このとき、時代は当に尊皇攘夷であり、土佐も土佐勤王党の那須信吾たちが、参政吉田東洋を暗殺したあとであった。
顕助は武市の下でこの時代の波に乗り志士としての活躍の場を求めていく。
しかし1863年(文久3年)京都にて8・18の政変が起こり、全国的に攘夷派が急速に力を弱めると、土佐藩の山内容堂も9月21日武市半平太を逮捕して土佐勤王党への弾圧を始めた。
このまま土佐に残留しても本望を遂げる事は難しいと判断した顕助は脱藩を決意する。
そして1864年(元治元年)8月14日 顕助は井原応輔、片岡利和、橋本鉄猪、池大六らと共に脱藩、仲間が多くいる長州藩に向けて落ちていく。
長州に入った顕助だったが、この時長州藩は禁門の変の敗北により、幕府軍の長州征伐を目の前にしていた。
顕助たちは大坂に集まる幕府軍を混乱させるために、大坂城を焼き討ちするという計画が立ち上がると大坂に潜伏します。
しかこの計画は新撰組み察知され、襲撃されてしまう。
顕助はいったん十津川へ逃げ込み、しばらく潜伏したのです。
十津川に潜伏していた顕助は、同じく土佐脱藩者である中岡慎太郎より坂本龍馬と成し遂げようとする薩長同盟構想を聞かされたのです。
これに賛同した顕助は、薩長同盟実現に向けて中岡慎太郎と共に奔走しはじめます。
薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田了助を送り込むときには、池内蔵太らと共に長州へ同行しており、
1866年(慶応2年)1月21日、中岡や龍馬をはじめとする、顕助ら土佐脱藩者たちの必死の努力の元に薩長同盟は結ばれことになるのです
これにより倒幕へ勢いは加速していくことになります。
その後も中岡慎太郎や坂本龍馬と深い繋がりを持ち、1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると副長として中岡を助けています。
陸援隊は土佐藩白川屋敷の敷地内に本部が置かれていました。
万事がこのまま順調に進むと思われていた矢先、とんでもないことが起こるのです。
慶応3年11月15日、龍馬の下宿先であった近江屋で龍馬と中岡が襲撃されたとの報が入ります。
この急報はすぐに陸援隊本部に伝えられ、顕助はすぐさま現場に駆けつけ、医師川村盈進を呼び手当てをさせています
しかし、龍馬は即死で、そして中岡は17日に没しました。
顕助は中岡を介抱しながら犯人の特徴などを聞き出し、それが今日残る暗殺犯人の証言となっているそうです。
このことで土佐は求心力を失い、時代の波から少し遅れをとるようになります。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の合戦時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍します。
維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、明治12年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20)、子爵を授けられて華族に列する(1907年には伯爵に陞爵)。明治31年、宮内大臣に就任。
約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
しかし明治42年、収賄疑惑で非難を浴びて同職の辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。
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田中光顕は1843年(天保14年)土佐藩の深尾鼎家臣 浜田金治充美の長男に生まれます。
最初は浜田辰弥、脱藩時に田中顕助と改名している。
顕助の父 浜田金治は父親が死ぬと弟の那須信吾を養育していたため、那須信吾はこの兄の恩に報いるために、兄の子である顕助をことのほか可愛がったようである。

顕助は成長すると城下に出て、武市道場に入門して武市半平太に師事します。
武市道場には叔父の那須信吾をはじめ、土佐各地より多くの子弟が集まっていた。
土佐の多くの志士達がそうであったように、顕助にとっても多大な影響を受けた場所であった。
そして顕助は武道だけではなく、河田小龍の墨雲洞へ入門していました。
この墨雲洞には近藤長次郎や土方久元、清岡道之助ら多くの逸材が通っており、顕助は城下へ出てよい環境で学べたといえます
1862年(文久2年)顕助は土佐勤王党に参加します。
このとき、時代は当に尊皇攘夷であり、土佐も土佐勤王党の那須信吾たちが、参政吉田東洋を暗殺したあとであった。
顕助は武市の下でこの時代の波に乗り志士としての活躍の場を求めていく。
しかし1863年(文久3年)京都にて8・18の政変が起こり、全国的に攘夷派が急速に力を弱めると、土佐藩の山内容堂も9月21日武市半平太を逮捕して土佐勤王党への弾圧を始めた。
このまま土佐に残留しても本望を遂げる事は難しいと判断した顕助は脱藩を決意する。
そして1864年(元治元年)8月14日 顕助は井原応輔、片岡利和、橋本鉄猪、池大六らと共に脱藩、仲間が多くいる長州藩に向けて落ちていく。
長州に入った顕助だったが、この時長州藩は禁門の変の敗北により、幕府軍の長州征伐を目の前にしていた。
顕助たちは大坂に集まる幕府軍を混乱させるために、大坂城を焼き討ちするという計画が立ち上がると大坂に潜伏します。
しかこの計画は新撰組み察知され、襲撃されてしまう。
顕助はいったん十津川へ逃げ込み、しばらく潜伏したのです。
十津川に潜伏していた顕助は、同じく土佐脱藩者である中岡慎太郎より坂本龍馬と成し遂げようとする薩長同盟構想を聞かされたのです。
これに賛同した顕助は、薩長同盟実現に向けて中岡慎太郎と共に奔走しはじめます。
薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田了助を送り込むときには、池内蔵太らと共に長州へ同行しており、
1866年(慶応2年)1月21日、中岡や龍馬をはじめとする、顕助ら土佐脱藩者たちの必死の努力の元に薩長同盟は結ばれことになるのです
これにより倒幕へ勢いは加速していくことになります。
その後も中岡慎太郎や坂本龍馬と深い繋がりを持ち、1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると副長として中岡を助けています。
陸援隊は土佐藩白川屋敷の敷地内に本部が置かれていました。
万事がこのまま順調に進むと思われていた矢先、とんでもないことが起こるのです。
慶応3年11月15日、龍馬の下宿先であった近江屋で龍馬と中岡が襲撃されたとの報が入ります。
この急報はすぐに陸援隊本部に伝えられ、顕助はすぐさま現場に駆けつけ、医師川村盈進を呼び手当てをさせています
しかし、龍馬は即死で、そして中岡は17日に没しました。
顕助は中岡を介抱しながら犯人の特徴などを聞き出し、それが今日残る暗殺犯人の証言となっているそうです。
このことで土佐は求心力を失い、時代の波から少し遅れをとるようになります。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の合戦時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍します。
維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、明治12年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20)、子爵を授けられて華族に列する(1907年には伯爵に陞爵)。明治31年、宮内大臣に就任。
約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
しかし明治42年、収賄疑惑で非難を浴びて同職の辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。

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