2008年05月17日

土方久元 薩長同盟の尽力者

坂本龍馬中岡慎太郎とともに薩長同盟に尽力した土方久元

土方は1833年(天保4年)土佐藩の上士の土方久用と母時子の長男として生まれる。

上士として江戸へ遊学し、儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。

帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加するのだが、なぜ上士の土方が郷士達中心の土佐勤王党に参加するようになったのかはよく分からない。
おそらく吉田東洋の改革路線に対して、それを不満に思う保守派層が存在したことである。土佐勤王党は過激な尊王攘夷の思想を掲げており、本来ならば正反対の立場にあるはずだったが、吉田東洋に対抗するという目的だったのかもしれない

1863年(文久3年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流するようになる。
やがて過激派公家三条実美の知己を得て、徴士学習院出仕を命ぜられたが、8・18の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放されてしまう。
土方は「七卿落ち」に従い、三条や沢宣嘉らとともに長州へ向かっている。

幕府による第一次長州征伐の際には、三条らとともに九州へ渡海し、太宰府に逃れる。
親長州の土佐浪士 中岡慎太郎・田中光顕坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。
東奔西走の日々を送っている。元々が上士なので、ひょっとすると龍馬や中岡よりも桂や、西郷達とはスムーズに話が出来ていたのかもしれない。
馬関において木戸孝允西郷隆盛の会談を周旋するが、西郷のドタキャンにより実現せず、また振り出しに戻ってしまう。

その後も龍馬。中岡とともに薩長同盟に向けて薩摩、長州、京を行ったり来たりを繰り返している。
本当に休む暇もないくらいの日々だったであろう。

こうした地道な努力の結果、1866年(慶応2年)1月21日京都薩摩藩邸で龍馬を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立した。

明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年(1868年)には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。

明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の農商務大臣として入閣。ついで宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。

龍馬や中岡の影に隠れて目立ちはしなかったが、土方の担った役割は大きく、維新後の土方の役割を見ればそれは納得できることであろう。

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