2008年05月24日

加冶屋町の英雄 西郷隆盛

1827年(文政10年)12月7日鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれた西郷隆盛

通称は吉之助である。
西郷の家は「御小姓与」という身分で、士分では下から2番目の身分の下級藩士あった。


少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。

西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通吉井友実伊地知正治篠原国実村田新八大山巌東郷平八郎山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。

まさに偉人の巣窟のような凄いところである。


西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。

西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。

二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。

西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。

大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。

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