2008年05月15日

赤根武人 志を疑われ無念の死

無念の死を遂げた赤根武人
長州藩 桂島の医師・松崎三宅の次男に生まれた赤根武人

15歳の時に妙円寺の僧侶・月性の清狂草堂に入塾し学び、その後に長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となる。
1856年(安政3年)吉田松陰の松下村塾に入門。おそらく月性の勧めがあったのだろうと思われる。

1857年(安政4年)には梅田雲浜の望南塾に入塾したが、安政の大獄にて梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。

帰郷した赤根は高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に1862年(文久2年)英国公使館焼き討ちを行い、
翌1863年(文久3年)攘夷の詔勅が発せられ、それにより長州藩は関門海峡を通過する諸外国の商船を砲撃した。
下関戦争である。しかし力の差は歴然で、手痛い反撃を受け、これを契機として長州は攘夷から開国へと急展開していくことになる。
 
この馬関先戦争で武士集団が卑怯で戦意に欠けていることが露呈、藩主 毛利敬親高杉晋作に打開策を命じた。
高杉は下関の豪商 白石正一郎の資金でもって奇兵隊を創設。
赤根もいち早く参加し、隊員の確保に東東奔西走し、ついに奇兵隊を作り上げた。
このとき赤根の故郷の志士は赤根の人徳を慕いこぞって入隊している。

10月には奇兵隊の奇兵隊総管河上弥一が憤死したため、赤根武人第三代総管に就任することになる。

しかし、1864年(元治元年)禁門の変が起こり、長州勢が敗退すると、長州内は紛糾し始める。
禁門の変により主だった者を失っていた正義派は藩政の実権も弱くなり、俗論派が次第に実権を握るようになっていた。

長州征伐をまえに両派が殺伐とした状況をつくっており、幕府軍が押寄せる中、長州藩は危機的状況に追い込まれていったのである。
この混乱をとりあえず回避するため俗論派は、禁門の変の軍事統帥関係者として三家老四参謀を処刑し、諸隊の解散を命じ、ひたすら幕府に恭順の意を表明した。
これにより一先ず幕府に許しを得たのだが、長州藩内は、なおも紛糾していた。

これ察した赤根は、第一次長州征伐後に藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を試みるのである。
赤根は禁門の変時の責任者として収監されている7名の政務員を釈放するよう働きかけた。
俗論派は、救命と引き替えに奇兵隊の解散を要求してくる。

しかし、このことが同志に二重スパイとして疑われる契機となってしまう。
赤根が時山直八と共に諸隊解散令撤回の目的をもって萩に出張している際に、高杉晋作が功山寺決起する。
正義派の藩政復活の狼煙であった。
赤根は解散の命令を受け、下関に戻ってこの命令を隊士に伝えるが、高杉は赤根が俗論派の連中に抗論せずに戻ってきたことを憤慨し、斬り合いになりそうになるのだ。

隊士たちもまた、「解散はできない」と主張し、赤根を殺害しようとする。
赤根自身としては、同じ長州人同士が争っていては倒幕もクソもあったもんじゃない。今は皆で力を合わせるときなんだ。という気持ちであったのだろう。
どうしても自分の意見と隊士の意見が相容れないものであることを悟り、これにより赤根は身の危険を感じ、1865年(慶応元年)1月、出奔して上方へ赴いた。
京、大坂は禁門の変後、長州人の取締りが厳しく、その後赤根は、幕府に捕縛されてしまう。

幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らの肝いりで11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。
これがさらに赤根武人が疑われる原因となった。
赤根は広島から長州に潜入し、生誕地である柱島を潜伏場所に選んでしまった。
12月には長州藩士槇村半九郎に捕縛され、翌年1月、山口の鍔石で処刑されてしまうのだ。

赤根は何度も獄中から自分の意見を訴えようとしたが、かなわず握り潰され尋問されることもなかったという。
旧配下の奇兵隊士たちが、元総管の面目の故をもって、武人を隊営に引き取って切腹させることを請願したけれども、それも許されず。
赤根もまた、志を述べて刑に就くことを求めたけれども、それも許さることはなかった。


赤根武人 享年29歳。

あまりにも無念な死であった。

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