2008年05月13日

三岡八郎 財政再建の手腕

幕末の辣腕財政主 三岡八郎
1829年(文政12年)福井城の藩士、三岡義知の長男として生まれる。
家政の切り回しが上手く女中を雇わずに家計を支えた賢婦人を母に持ち、
幼少のころより母を助けて家屋の修繕や菜園の栽培し父の乗馬の飼育などを手伝い、
その一方で武道に励んだという。

幕末四賢公の一人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、福井藩に訪れた横井小楠の殖産興業策に触発、経済調査を行い財政に窮した藩の建て直しに力を振るった。

殖産興業策を進めるため、小楠に同行して、下関では物産取引の実情を調査、長崎には越前蔵屋敷を建て、オランダ商館との間に生糸販売の特約を結んだ。
三岡が推進した「民富めば国の富む理である」という「民富論」的な富国策は大きな成果を挙げ、藩財政は黒字に転じた。
藩主松平春嶽が幕府政事総裁職に就任すると、側用人として長州征伐不支持と薩摩・長州など雄藩との提携を主張。
しかし、藩論の支持を得られず蟄居・謹慎を命じられた。

謹慎中、坂本龍馬は三岡の財政再建の手腕を買って新政府の参画を求めて来訪し、城下山町の「たばこや」で会談し、
維新後は、旧姓に復して由利公正と称し、徴士・参与となり、御用金取扱を命じられた。
明治新政府への参画を求められている。

龍馬と三岡は大変気が合ったようで、龍馬は二度、越前福井を訪れているが、 二度目となるこのときは三岡と、足羽川にちかい山町の「たばこ屋旅館」にて、午前8時から夜中の午後12時過ぎまで延々16時間に渡って、日本の将来を語り合ったという。
このとき謹慎中だった三岡には、出渊伝之丞と御用人松平源太郎が付き添っていたのだが,龍馬は何の遠慮もせずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と三岡を見るなり叫んだといいます。

王政復古後に参与職となり戊辰戦争を戦っていた新政府の財政問題を担当する傍ら、五箇条の御誓文の起草にも参画する。
1871年には第4代東京府知事に任命され、庁内の人員整理などを行う。
翌1872年に岩倉具視に従い欧州へ渡航、欧州各国の自治制度・議会制度などを研究。
1874年には民撰議院設立建白書の提案者に名を連ねる。
1887年に子爵に列せられ、1890年に貴族院議員となった。

1894年(明治27年)3月、後に明治生命(明治安田生命の前身)に合併される有隣生命保険を京都に創立し、初代社長に就任した。

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