2008年05月10日

天狗党の首領 武田耕雲斎

天狗党の首領 武田耕雲斎
水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房の養嗣子となる。

1817年(文化14年)家督を継ぐと同時に武田氏に改姓する。
もともと甲斐武田の下で守護代を世襲した跡部氏であったため、耕雲斎は武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。

戸田忠太夫藤田東湖と並び水戸の三田と称されている。

耕雲斎も戸田や藤田と同様に9代藩主・徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから要職に就くようになる。

しかし1844年(弘化元年)に斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、耕雲斎も連座で謹慎となった。
1849年(嘉永2年)斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、1856年(安政3年)には執政に任じられた。
そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えていく。

しかし1860年(万延元年)に斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極める。
耕雲斎も藩政から遠ざけられるかたちとなるが、耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、1864年(慶応元年)には藤田東湖の息子・藤田小四郎が天狗党を率いて挙兵してしまう。

耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。
耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。

天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。
そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。
降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬り殺された。
武田耕雲斎 享年63歳。

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