2008年05月07日
中村半次郎 人斬りの真実
人斬り半次郎こと中村半次郎は1838年(天保9年)薩摩藩の中村与右衛門(桐野兼秋)の三男として生まれる。
通称ははじめ半次郎、桐野姓に復姓してからは信作。
初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称するようになる。

半次郎が10歳頃、父 与右衛門が罪により徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄 与左衛門を助けていたが、18歳のときに兄が病没してからは小作や開墾畑を耕して一人で家計を支えた。
石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限の郷中の士と親交を結ぶようになり、この郷中には生麦事件で英人を斬った奈良原幸五郎や寺田屋事件で死んだ弟子丸龍助など精忠派の士が多く、彼らの影響を強く受けた。
1862年(文久2年)島津久光に随って上京し、他藩の志士たちと交際し、小松帯刀らから用いられるようになった。
1864年(元治元年)中村半次郎は尊攘激派の中へ入って、長州藩邸にもよく出入りしていたようで、長州の事情はよくわかったようだ。
西郷隆盛は大久保利通に、半次郎は長州へ行きたいと願っており、脱藩したことにして探索業務を任せることを提案する。
しかし、西郷は半次郎が本当に脱藩してしまうかもしれないと思っている節もあり、まぁ帰ってきたら役にたつだろう。とある程度寛容な心で見ていたようだ。
しかし、中村半次郎は長州へ赴いたが、藩境でとめられ入国できなかった。
当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。
それだけ長州は薩摩に対して恨みを持っていたことが分かる。
半次郎はこのころから、長州よりの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいが、結局、長州は暴発し禁門の変となってしまう。
禁門の変においては、長州贔屓の半次郎は一薩摩藩兵として、長州勢と戦わざるをえなかった。
半次郎は兵庫入塾もねがっており、兵庫塾とは、つまり神戸海軍操練所である。
この神戸海軍操練所は島津斉彬と勝海舟が話しをした際に、日本にも諸外国と対等に戦うには海軍塾が必要であるということから、勝が作ったものであった。
このときも西郷は大久保に手紙を書き、半次郎が兵庫に行きたいといっているから行かせてはどうかと記している。
しかし、実際には池田屋事件などがあり、神戸海軍操練所は閉鎖されてしまい半次郎は学ぶことは出来なかった。
またやはりこの年の暮れ、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴いたといわれる。
薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ねていく。
もともと親長州だった半次郎だから当然と言えば当然で、1867年(慶応3年)には伊集院金次郎とともに馬関から長州藩士山県狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで護衛したりしている。
同年秋、毎日のように数人で京都を見回りをしていたが、9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺した。
半次郎には「人斬り半次郎」という異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件しかない。
土佐の坂本龍馬とも仲は良かったようで、坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走している。
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通称ははじめ半次郎、桐野姓に復姓してからは信作。
初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称するようになる。

半次郎が10歳頃、父 与右衛門が罪により徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄 与左衛門を助けていたが、18歳のときに兄が病没してからは小作や開墾畑を耕して一人で家計を支えた。
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1862年(文久2年)島津久光に随って上京し、他藩の志士たちと交際し、小松帯刀らから用いられるようになった。
1864年(元治元年)中村半次郎は尊攘激派の中へ入って、長州藩邸にもよく出入りしていたようで、長州の事情はよくわかったようだ。
西郷隆盛は大久保利通に、半次郎は長州へ行きたいと願っており、脱藩したことにして探索業務を任せることを提案する。
しかし、西郷は半次郎が本当に脱藩してしまうかもしれないと思っている節もあり、まぁ帰ってきたら役にたつだろう。とある程度寛容な心で見ていたようだ。
しかし、中村半次郎は長州へ赴いたが、藩境でとめられ入国できなかった。
当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。
それだけ長州は薩摩に対して恨みを持っていたことが分かる。
半次郎はこのころから、長州よりの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいが、結局、長州は暴発し禁門の変となってしまう。
禁門の変においては、長州贔屓の半次郎は一薩摩藩兵として、長州勢と戦わざるをえなかった。
半次郎は兵庫入塾もねがっており、兵庫塾とは、つまり神戸海軍操練所である。
この神戸海軍操練所は島津斉彬と勝海舟が話しをした際に、日本にも諸外国と対等に戦うには海軍塾が必要であるということから、勝が作ったものであった。
このときも西郷は大久保に手紙を書き、半次郎が兵庫に行きたいといっているから行かせてはどうかと記している。
しかし、実際には池田屋事件などがあり、神戸海軍操練所は閉鎖されてしまい半次郎は学ぶことは出来なかった。
またやはりこの年の暮れ、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴いたといわれる。
薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ねていく。
もともと親長州だった半次郎だから当然と言えば当然で、1867年(慶応3年)には伊集院金次郎とともに馬関から長州藩士山県狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで護衛したりしている。
同年秋、毎日のように数人で京都を見回りをしていたが、9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺した。
半次郎には「人斬り半次郎」という異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件しかない。
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