2008年05月06日
河上彦斎 人斬りの道
河上彦斎 1834年(天保5年)肥後藩士・小森貞助の次男として生まれる。
11歳で河上彦兵衛の養子となり、16歳で熊本城下の掃除坊主となる。藩校の時習館に通い、学問と剣の修行に励む。
彦斎は剣道の試合には弱く、いつも負かされていたと言う。
この頃、宮部鼎蔵らに出会い、肥後勤皇党の中に入り、勤皇の志に目覚め始めたということです。
藩主の参勤交代の供で江戸に行きますが、そこでペリーの浦賀来航を聞くのです。
不平等条約を結ばされる幕府に不安と憤りを感じた河上は、熊本に帰り、勤王学者・林桜園の原道館に入門。
同門に太田黒伴雄・加屋霽堅などの神風連の首領たちがいて親交を深めることになる。
1859年(安政6年)井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らを処刑する安政の大獄が起こります。
河上はこれに憤慨、より一層倒幕の意思を固めていくのです。
そして1860年(万延元年)桜田門外の変が起きます。
この事件で重傷を負った水戸浪士の森五六郎・大関和七郎・森山繁之介・杉山弥一郎の四人が、江戸の熊本藩邸に逃げ込み、役所に行くまでしばらく休養させてくれるよう頼んできました。
藩邸内は大騒ぎになりました。
そんな中、家老付き坊主として江戸にきていた河上は、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなしたのです。
河上は尊皇攘夷運動の先駆けとなった水戸浪士に敬意をもっていた。
1862年(文久2年)中山大納言諸大夫・田中河内介の紹介で清河八郎が肥後を訪問してくる。
清河は、肥後勤皇党の参加を説きに来たのだったが、最初、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤皇党員は八郎を信用をしなかった。しかし、河上は強く八郎に共鳴賛同し「呼んでいただければ、私はいつでも馳せ参じます。」と言い信用を寄せた。
清河が薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、河上、宮部らは藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の肥後藩が動くことはなかった。
しかし、島津久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
1863年(文久3年)8.18の政変で長州藩が京を追放されると、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、河上は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちとともに脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。
そんな中、肥後藩には衝撃的なことが起こる。
1864年(元治元年)6月4日、新撰組が池田屋を襲撃し、池田屋で宮部鼎蔵をはじめ河上の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助や高木元衛門、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の北添佶麿らが殺害されます。長州でその悲報を同志の大楽源太郎から聞いた河上は悲憤し、いそいで京都へ上っていったのです。
上京した河上は、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。
佐久間は長州・吉田松陰の師であったが、この時佐久間は公武合体論者であり、河上は暗殺することを決意する。
河上は「人斬り彦斎」と呼ばれていたが、確実に分かっているのは佐久間象山だけで、あとは誰が斬られたかは分かっていない。
元治元年7月11日、河上彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山を待ち伏せしていました。
参加したのは、因幡藩 前田伊左衛門、平戸脱藩浪士 松浦虎太郎、南次郎です。
外出先から戻ってきた象山は三条大橋のそば通ります。象山が角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかるのです。
足を斬られた象山は驚いてすぐさま鞭を叩き、馬を走らせます。
松浦虎太郎が横から出てきて追いかけるものの間に合いません。宿舎が目の前に迫ってきた所で河上彦斎が馬の前にいきなり飛び出しました。
馬はそれに驚いて棒立ちになり象山は落馬、間髪入れずに河上は初太刀を象山の胴に薙います。
象山が刀を抜こうとした瞬間、二の太刀が河上の頭を割ったのです。
追いついた松浦虎太郎が最後に一太刀浴びせ、佐久間象山は絶命します。
後日象山の本当の考えを知った河上は己のしたことに後悔し、悲観した。
そのせいもあってか、それ以後河上は人斬りをしなくなってしまったという。
佐久間暗殺の8日後、追い詰められた長州は決起し、「禁門の変」が起こる。
しかし、圧倒的兵力の差で敗れ、河上は長州に逃げ去ることになるが、長州征伐の折、肥後藩が幕軍として長州と対峙したことに怒り、肥後藩首脳を説得するために熊本へ戻ることを決める。
しかし、逆に脱藩した罪を咎められ投獄されてしまうのだ。
1年間入獄後、時代は大きく変わっており、幕府は大政奉還をし、王政復古の大号令が発せられていた。
新政府軍は鳥羽・伏見の戦いを経て、時代は明治へと移っていく。
肥後藩は慌てて河上ら勤皇志士を出獄させ、藩庁の役人に取り立て、時代に乗り遅れまいとする。
維新後、外交係に任命され河上は、名を高田源兵衛と改める。外交係として各地を回っているうちに、新政府に登用されたかつての同朋・志士たちは攘夷を捨て、開国政策の方向に進んでいることに愕然とし、新政府に反抗し、あくまでも攘夷を掲げる河上だったが、帰国命令がだされ、その後は「有終館」という兵学校を設立し、後進を育てることに尽力する。
しかし、新政府の方針に従おうとせず危険視されていた河上は、ありもしない容疑でを捕えられてしまう。
そして明治4年12月、河上彦斎は斬首される。
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11歳で河上彦兵衛の養子となり、16歳で熊本城下の掃除坊主となる。藩校の時習館に通い、学問と剣の修行に励む。
彦斎は剣道の試合には弱く、いつも負かされていたと言う。
この頃、宮部鼎蔵らに出会い、肥後勤皇党の中に入り、勤皇の志に目覚め始めたということです。
藩主の参勤交代の供で江戸に行きますが、そこでペリーの浦賀来航を聞くのです。
不平等条約を結ばされる幕府に不安と憤りを感じた河上は、熊本に帰り、勤王学者・林桜園の原道館に入門。
同門に太田黒伴雄・加屋霽堅などの神風連の首領たちがいて親交を深めることになる。
1859年(安政6年)井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らを処刑する安政の大獄が起こります。
河上はこれに憤慨、より一層倒幕の意思を固めていくのです。
そして1860年(万延元年)桜田門外の変が起きます。
この事件で重傷を負った水戸浪士の森五六郎・大関和七郎・森山繁之介・杉山弥一郎の四人が、江戸の熊本藩邸に逃げ込み、役所に行くまでしばらく休養させてくれるよう頼んできました。
藩邸内は大騒ぎになりました。
そんな中、家老付き坊主として江戸にきていた河上は、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなしたのです。
河上は尊皇攘夷運動の先駆けとなった水戸浪士に敬意をもっていた。
1862年(文久2年)中山大納言諸大夫・田中河内介の紹介で清河八郎が肥後を訪問してくる。
清河は、肥後勤皇党の参加を説きに来たのだったが、最初、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤皇党員は八郎を信用をしなかった。しかし、河上は強く八郎に共鳴賛同し「呼んでいただければ、私はいつでも馳せ参じます。」と言い信用を寄せた。
清河が薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、河上、宮部らは藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の肥後藩が動くことはなかった。
しかし、島津久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
1863年(文久3年)8.18の政変で長州藩が京を追放されると、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、河上は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちとともに脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。
そんな中、肥後藩には衝撃的なことが起こる。
1864年(元治元年)6月4日、新撰組が池田屋を襲撃し、池田屋で宮部鼎蔵をはじめ河上の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助や高木元衛門、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の北添佶麿らが殺害されます。長州でその悲報を同志の大楽源太郎から聞いた河上は悲憤し、いそいで京都へ上っていったのです。
上京した河上は、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。
佐久間は長州・吉田松陰の師であったが、この時佐久間は公武合体論者であり、河上は暗殺することを決意する。
河上は「人斬り彦斎」と呼ばれていたが、確実に分かっているのは佐久間象山だけで、あとは誰が斬られたかは分かっていない。
元治元年7月11日、河上彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山を待ち伏せしていました。
参加したのは、因幡藩 前田伊左衛門、平戸脱藩浪士 松浦虎太郎、南次郎です。
外出先から戻ってきた象山は三条大橋のそば通ります。象山が角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかるのです。
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後日象山の本当の考えを知った河上は己のしたことに後悔し、悲観した。
そのせいもあってか、それ以後河上は人斬りをしなくなってしまったという。
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しかし、圧倒的兵力の差で敗れ、河上は長州に逃げ去ることになるが、長州征伐の折、肥後藩が幕軍として長州と対峙したことに怒り、肥後藩首脳を説得するために熊本へ戻ることを決める。
しかし、逆に脱藩した罪を咎められ投獄されてしまうのだ。
1年間入獄後、時代は大きく変わっており、幕府は大政奉還をし、王政復古の大号令が発せられていた。
新政府軍は鳥羽・伏見の戦いを経て、時代は明治へと移っていく。
肥後藩は慌てて河上ら勤皇志士を出獄させ、藩庁の役人に取り立て、時代に乗り遅れまいとする。
維新後、外交係に任命され河上は、名を高田源兵衛と改める。外交係として各地を回っているうちに、新政府に登用されたかつての同朋・志士たちは攘夷を捨て、開国政策の方向に進んでいることに愕然とし、新政府に反抗し、あくまでも攘夷を掲げる河上だったが、帰国命令がだされ、その後は「有終館」という兵学校を設立し、後進を育てることに尽力する。
しかし、新政府の方針に従おうとせず危険視されていた河上は、ありもしない容疑でを捕えられてしまう。
そして明治4年12月、河上彦斎は斬首される。
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