2008年05月04日

尊攘の先達 真木和泉

攘夷の真木和泉 筑後国久留米藩、水天宮の神職 真木旋臣の家に生まれる。

藩校明善堂で学び、江戸・水戸に遊学し尊皇攘夷を唱える。
神職を継ぎ、国学や和歌などを学ぶ。水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響を強く受け、水戸学の継承者として位置づけられる。久留米に帰り、木村三郎村上守太郎らと水戸学の影響下にある天保学と呼ばれる学派を作り、天保学連の中心となり、藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書している。
1852年(嘉永5年)稲次因幡木村三郎らとともに執政 有馬監物らを排斥しようとするが失敗し、嘉永の獄で「三里構い」となって蟄居を命ぜられた。
この蟄居生活は長く、11年にもおよぶ。
幽閉中、真木は開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策、1861年(文久元年)「義挙三策」を著し王政復古を説いた。

そんな中、平野国臣清河八郎らと会議し1862年(文久2年)には脱藩し薩摩に向かう。
薩摩で大久保利通有馬新七らと薩摩藩 主島津久光を擁立しての上洛を計画、久光が上京するとともに今日に上がり、京で活動しはじめる。
しかし、島津久光にこの情報が漏れ、寺田屋事件にて有馬達は註殺されてしまう。
真木も捕らえられ幽閉され久留米に護送幽閉されたが、その後は長州藩に接近する。
長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説き、6月上京し学習院御用掛となった。

しかし、会津藩と薩摩が結託した8・18の政変が起こると、七卿とともに長州へ逃れる。

長州に下った真木は「出師三策」を著して軍事力による朝廷奪回を主張

久坂玄瑞来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州藩の汚名を雪ぐため京に軍を向けるのだ。

6月15日、来島又兵衛が遊撃隊をもって挙兵上京し、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老も京都へ向けて進軍します。
6月22日には福原は大坂へ上陸、武装したまま6月24日、伏見長州藩邸に布陣します。
福原隊は、長州藩京都留守居役・乃美織江を通じて、所司代へ上京の届け出を提出しました。
その理由は、「池田屋騒動に関する取り調べ」としていました。

また、真木和泉守久坂玄瑞は6月24日には淀川を遡って天王山に布陣します。
関所の届けには、「朝廷と幕府への嘆願書の提出」を理由としていました。
さらに河原町の長州藩京都屋敷にいた藩士と合流した浪士ら約500人が嵯峨天龍寺に移り、長州藩は三方から御所をうかがうことになったのです。
天王山に布陣していた真木は、朝廷に対し、挙兵上京した大義名分を訴える哀願書を提出します。
内容は8.18の政変で京を追われた三条実美ら五卿ならびに長州藩の毛利父子の冤罪、攘夷の国是嘆願でした。

しかし一橋慶喜は、「大軍を擁して入洛するだけでも大逆行為」と憤慨し、孝明天皇も「今さら長州の入京は不可」と仰せられて、長州討伐が決定します。
長州藩は大垣藩が守る関門へ向かいます。大垣藩は長州勢に大砲を撃ち込みついに戦端が開かれました。
開戦当初は長州藩が押していました。

真木たちも天王山から御所に向かいます。
時が経つにつれ形勢は長州不利になっていき、真木和泉率いる隊を本隊とし、山陰街道を天王山に向かって撤退します。
長州勢追討の命令が出たこともあり、真木は責任を感じていました。

天王山に着いた真木は自害を決意します。
真木和泉 享年52歳。


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