2008年05月03日
吉村虎太郎 土佐の四天王
土佐の四天王の一人 吉村虎太郎は土佐藩の庄屋、吉村太平の長男として生まれる。
12歳のときに父の跡を継いで北川村庄屋となる。

後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚し、郡役人の間崎哲馬に学問を学び。
また城下に出て武市半平太に剣術を学びことによって、尊攘思想に傾倒するようになっていった。
1857年(安政4年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こす。
この事件のために下分村に転任させられている。
1861年(文久元年)武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟し、翌1862年には武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。
それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩 島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。
これを聞いた吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかったため、やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行する。
この時、藩境の誰何が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。
吉村の脱藩後にしばらくして坂本龍馬、宮地宜蔵らが次々と脱藩している。
吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士 本間精一郎と合流。
上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。
平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であったため、浪士の動きを知った久光は驚き、鎮撫を命じる。
だが、これを不満に思う薩摩藩士 有馬新七は過激派藩士と浪士だけで挙兵を決行することを計画するが、これが島津久光に漏れ、大久保一蔵らの説得工作も失敗、4月23日には久光は伏見の寺田屋を同じ誠忠組に襲撃させて有馬ら過激尊攘派藩士の粛清をした。世に言う寺田屋事件である。
翌日、吉村と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致された。
30日に身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還され、船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。
土佐に戻った吉村は8ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に傾いてくると、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって吉村らも釈放されることとなった。
1863年吉村虎太郎は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛されていた。
吉村は山県小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。
そして将軍徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。
そして5月10日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃、この長州藩の攘夷決行には侍従中山忠光が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしているのだ。
6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退。吉村は松本奎堂、池内蔵太ら浪士とともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見して、上京を説いている。
吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち京都へ戻っていく。
8月13日、三条実美ら攘夷派公卿が画策して大和行幸の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で久留米の志士真木和泉の献策によるものだった。
吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画する。
吉村虎太郎は、侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、吉村、池内ら同志39人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。
一行は大坂から海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表し、天誅組と称するようになるのだ。
天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げる。
五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。
三条実美は天誅組のこの過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に8.18の政変が起こり政局は一変。
三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされたため、大和行幸の詔は偽勅とされることになってしまう。
挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組は完全に孤立してしまった。
幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して1000人の兵をかき集めたのだ。
天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、高取城を攻撃するものの、所詮は烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走。
敗戦に憤った吉村は24人の決死隊を編成して夜襲を図る。
決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇し、吉村は敵に斬りかかるが下腹部に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退。
9月に入ると天誅組は周辺諸藩の大軍の攻撃を受けながら奮戦するが各地で敗退が続き。
遂には中山忠光を逆賊とする詔が下ると、十津川郷士も離反し、天誅組は脱出すべく山中を彷徨うが9月24日に吉野村で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本、藤本らほとんどがここで戦死するか捕縛され、天誅組は壊滅した。
傷が悪化して歩行困難となっていた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、27日に津藩兵に発見され射殺されてしまう。
吉村虎太郎 享年27歳。
辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。
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12歳のときに父の跡を継いで北川村庄屋となる。

後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚し、郡役人の間崎哲馬に学問を学び。
また城下に出て武市半平太に剣術を学びことによって、尊攘思想に傾倒するようになっていった。
1857年(安政4年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こす。
この事件のために下分村に転任させられている。
1861年(文久元年)武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟し、翌1862年には武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。
それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩 島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。
これを聞いた吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかったため、やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行する。
この時、藩境の誰何が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。
吉村の脱藩後にしばらくして坂本龍馬、宮地宜蔵らが次々と脱藩している。
吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士 本間精一郎と合流。
上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。
平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であったため、浪士の動きを知った久光は驚き、鎮撫を命じる。
だが、これを不満に思う薩摩藩士 有馬新七は過激派藩士と浪士だけで挙兵を決行することを計画するが、これが島津久光に漏れ、大久保一蔵らの説得工作も失敗、4月23日には久光は伏見の寺田屋を同じ誠忠組に襲撃させて有馬ら過激尊攘派藩士の粛清をした。世に言う寺田屋事件である。
翌日、吉村と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致された。
30日に身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還され、船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。
土佐に戻った吉村は8ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に傾いてくると、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって吉村らも釈放されることとなった。
1863年吉村虎太郎は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛されていた。
吉村は山県小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。
そして将軍徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。
そして5月10日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃、この長州藩の攘夷決行には侍従中山忠光が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしているのだ。
6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退。吉村は松本奎堂、池内蔵太ら浪士とともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見して、上京を説いている。
吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち京都へ戻っていく。
8月13日、三条実美ら攘夷派公卿が画策して大和行幸の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で久留米の志士真木和泉の献策によるものだった。
吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画する。
吉村虎太郎は、侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、吉村、池内ら同志39人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。
一行は大坂から海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表し、天誅組と称するようになるのだ。
天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げる。
五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。
三条実美は天誅組のこの過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に8.18の政変が起こり政局は一変。
三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされたため、大和行幸の詔は偽勅とされることになってしまう。
挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組は完全に孤立してしまった。
幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して1000人の兵をかき集めたのだ。
天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、高取城を攻撃するものの、所詮は烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走。
敗戦に憤った吉村は24人の決死隊を編成して夜襲を図る。
決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇し、吉村は敵に斬りかかるが下腹部に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退。
9月に入ると天誅組は周辺諸藩の大軍の攻撃を受けながら奮戦するが各地で敗退が続き。
遂には中山忠光を逆賊とする詔が下ると、十津川郷士も離反し、天誅組は脱出すべく山中を彷徨うが9月24日に吉野村で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本、藤本らほとんどがここで戦死するか捕縛され、天誅組は壊滅した。
傷が悪化して歩行困難となっていた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、27日に津藩兵に発見され射殺されてしまう。
吉村虎太郎 享年27歳。
辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。
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