2008年05月02日

水戸の両田 戸田忠太夫

藤田東湖と共に、 「水戸の両田」と並び称せられた戸田忠太夫
戸田は水戸藩の戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。

幼少のころの詳しい資料がないためその頃の状況は定かではない。
1813年(文化10年)戸田忠太夫は家督を継いで小普請組となる。
1820年(文政3年)大番組頭、1828年(文成11年)には目付となっていく。
ちょうどその頃に、水戸藩に継嗣争いが起こるのだ。
第8代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。
このとき戸田は藤田東湖とともに斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。

斉昭が水戸藩主となると藤田とともに斉昭を支え世に水戸の両田といわれ、尊王の志と学識を備えた優れた指導者として知られる様になっていく。
1830年(天保元年)藩内争議のため、戸田は無願出府して免職され、留守居同心頭列となったものの、斉昭の意向により3月には江戸通事として復帰している。
その後も数々の要職を重ねていき、水戸藩における天保の改革として領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において重要な役割を果たしていった。

しかし、斉昭が1844年(弘化元年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚、戸田も同様に免職、蟄居謹慎を命ぜられることになる。

斉昭への譴責が緩むにつれて戸田も復帰が適い、中寄合となって水戸表での遠慮が命じられた。
1853年(嘉永6年)ペリーの来航にともない斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、戸田忠太夫も幕府海岸防禦御用掛、江戸詰となり執政に準ずる身分となり、海防掛として老中以下幕臣の岩瀬忠震らと異人来襲の危機につき協議に参画するなど活躍し、11月には忠太夫の名を賜ることになる。
ちょうどこのころに薩摩藩士・海江田信義が尊王思想を通じて知己となった藤田東湖の紹介で、江戸の水戸藩邸にいた戸田忠太夫を訊ねてきた。
海江田はその後ちょくちょくと戸田を訪ねており、海江田が訪れると一日中、六畳あまりの小楼にて談義していたという。

戸田はその楼が、この間でき上がたばかりだと紹介し、楼から見える風景を前にこんもりしているのは、後楽園の松林でここにいると山中にいる気分になるようだと語った。
戸田は自分は若い時から笙を吹くのが好きだが、以前に藤田ともども禁錮を受けていた故に笙どころではなかったという。

楼ができたので吹いてみたいと藤田に述べると、藤田は笙は雅楽だから鄙しいものではなく、吹くのは良いが、遊びは遊びであるという。ペリー来航で天下が乱れている時に笙を吹いているのでは、逸楽に耽っているなどという者もあるかもしれず、時機がまだ早いだろう。もう少し待ってはどうかと諭されたという。これを聞いた戸田は内心慙愧に絶えず、助言通り吹くことはしないが、心中そんな気を動かしたというだけで自分は藤田には及ばないと述べていたという

1855年(安政2年)安政の大地震によって、その出来たばかりの小石川の水戸藩邸にある楼で卒去してしまう。
結局、戸田忠太夫は笙を吹くこともなくこの世を去ってしまう形に成ってしまった。


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