2008年04月30日

大久保利通 維新の三傑

維新の三傑 大久保利通は1830年(文政13年)薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれる。
大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士で、幼少期に親友の西郷隆盛海江田信義らと共に学問を学ぶ。

1846年(弘化3年)から藩の記録所書役助として出仕するようになるが、1850年(嘉永3年)お由羅騒動にて連座で罷免され謹慎処分となっている。
島津斉彬が藩主となると復職し、精忠組の領袖として活動していく。
斉彬の死後失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。
篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれている。
島津久光から信用はかなりのもので、1862年(文久元年)での間に久光から一蔵の名を賜り改名している。

そして1865年(慶応元年)大久保利通と改名する。

久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。
西郷と共に政治の中枢として活動し、1867年(慶応3年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。
西郷は歴史の表舞台で活躍し、脚光を浴びる中、大久保は裏で政界を改革していく地味な役?だったためあまりめざましい活躍は少ないが、行った功績は大きい。
大久保達の志は一つ、「外国に蔑まれない国を創る」という国家的使命感への熱気に溢れていた。
「日本から外国人を追い出せ」と主張する攘夷論者であった彼らが、後に開国論者に変わっていったのは、軽薄な変節漢であったからではない。
むしろ変わらぬ「一つの志」、「祖国愛」だったからであろう。大久保は信念の人であるがゆえ不動の人であり、現実を見極める力があるがゆえ柔軟の人でもあった。

そんな大久保だったが維新後は大久保の考えについていけない士族たちの恨みの矛先になっていってしまう。

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