2008年04月28日
江川太郎左衛門 世直し江川大明神
幕末に多くの志士達が学んだ江川太郎左衛門の砲術。
江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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