2008年04月27日

宮部鼎蔵 肥後の雄 

肥後熊本藩士の尊皇攘夷派の核心宮部鼎蔵

1820年(文政3年)肥後国に生まれる。
代々医師の家系の叔父である宮部増美の養子となる。
山鹿流軍学を学び、30歳で熊本藩に召抱えられ、林櫻園に国学などを学ぶようになる。
吉田松陰が九州遊学に来たときに松陰と会談する機会があり懇意になり、1850年(嘉永3年)に東北旅行に同行している。
尊皇攘夷に目覚め始めたのがこの頃だと言われている。
東北諸藩で諸国の志士と交遊し尊皇攘夷の信念を深くしますが、吉田松陰の捕縛に伴い帰国。
水前寺乱闘事件のとがで兵法師範職を廃されてしまいます。  

1861年(文久元年)肥後勤皇党にその名を連ね、党の中でも中心的な人物となり活躍していく。

1862年(文久2年)清河八郎が九州遊説の折に、中山大納言家の諸大夫であった田中河内介の紹介で肥後に参じている。清河八郎中川大納言が攘夷に立つにあたり、肥後の有志も参加するように説きに来たのだったが、肥後勤皇党員たちの信用を得られず、やむなく熊本を去っている。

この時、宮部、河上彦斎らは清河の志を汲み、党内で必死の説得に当たっている。
清河ので奮起した宮部は上京し、全国から集まってきた尊攘派志士たちと政治活動に奔走するようになる。

しかし、挙兵のために集まってきた尊攘派志士たちの高揚とはうらはらに、薩摩の島津久光の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した島津久光は寺田屋にいる志士の粛清を命じる。寺田屋の変にて粛清された尊攘派志士たちは京都での挙兵は失敗に終ったため、
 

1863年(文久3年)8.18の政変で尊攘派の急先鋒の長州藩が京を追放され、宮部は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちは脱藩、三条実美ら七卿らとともに長州へと向かうことになる。

翌1864年(元治元年)宮部は再び上京し、潜伏しつつ尊皇攘夷の活動に奔走する。
 
そして6月4日、同志の一人古高俊太郎が新撰組に逮捕されてしまいます。
宮部は同志を救出するため、京都三条小橋池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派がひそかに会合していました。
そこへ、京都守護職隷下の会津・桑名・彦根・加賀の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等総兵力三千余人が導員され、その中にいた近藤勇土方歳三らが率いる新撰組により襲撃されました。
世に言う池田屋事件だが、長州の桂小五郎などが決起の自粛を求めるように動いていたが結局過激派の志士たちを貯めることはできなかった。

宮部鼎蔵も最早これまでと悟り、「諸君、潔く自決せよ」と叫ぶと、捕縛されること恥と思ったのか、立ったまま割腹します
享年45歳。

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