2008年04月26日

横井小楠 認めてもらえぬ才能

横井小楠は1809年(文化6年)肥後藩士 横井時直の次男として生まれる。
「小楠」は、かれが使った号のひとつで、諱は「時存」であり、正式な名のりは平時存。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。


幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれています。
しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学。ここでも頭角を現し、1837年(天保8年)やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。
2年後の1839年(天保10年)には江戸遊学を命じられ、水戸藩士の藤田東湖と面会して意見を闘わせたりしましたが、酒の席での失敗により熊本へ呼び戻されてしまいます。

このころ小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。
それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそである。
実際に役立つ学問こそ、最も大事」であると云う考えで「実学党」である。
1855年(嘉永5年)越前藩の求めに応じ「学校問答書」という建白書を書きます。
この教育論には吉田松陰も感心し、長州藩にも推薦しようとしたといいます。吉田松陰は嘉永6年に小楠に会いに熊本にまで来ています。

私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきました。また、坂本龍馬井上聞多など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。

熊本での冷遇とは反対に、1852年(嘉永5年)以来、招請により4度も福井を訪れています。福井藩の明道館校長にも任ぜられ、松平春嶽の政治顧問としても重視され、藩政改革にあたります。
1862年(文久2年)松平春嶽が幕府政治総裁となり、小楠も松平春嶽の要望に応え「国是7カ条」を作成するなどし、幕政改革にも参画しており公武合体運動を推進し、雄藩連合を構想していました。
このときに三岡八郎は小楠の考えに傾倒し、のちの財政手腕が発揮されるようになる。
福井藩に小楠がいるときには坂本龍馬も尋ねてきて、三岡、龍馬、小楠の3人で日本の将来について語り明かしという。


1868年(慶応4年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下る東側で暗殺される。
横井小楠 享年61歳。

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであった。
しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。
紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。

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