2008年04月25日
水戸の両田 藤田東湖
徳川斉昭の腹心として幕末の水戸藩の尊皇志士に大きな影響を与えた男 藤田東湖。
1806年(文化3年)藤田東湖は父の水戸学者藤田幽谷の下に生まれる。
青年期に彰考館に勤め、1827年(文政10年)に家督を相続。
進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。

1829年(文政12年)水戸藩に継嗣問題が起こる。第8代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。
このとき東湖は斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。
斉昭の襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得て、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりる。
しかし、斉昭が1844年(弘化元年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚し、禄を剥奪される。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって1846年(弘化3年)に謹慎を解除されるとそれまでの責を問われ江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。
1849年(嘉永2年)徳川斉昭が藩政関与が許されると、東湖の罪も許され水戸に戻ることが出来た。
そして3年後の1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、時代が激震をすると、幕府は徳川斉昭が海防参与として幕政に参画させ、それに伴い藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。
1854年(安政元年)には側用人に復帰している。
徳川斉昭には側近・戸田忠太夫がおり、東湖と共に、 「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。
各藩の志ある若者達は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けていったのです。
また東湖は他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと言われるほどの力をもっていた。
ペリーの来航以後彷徨う幕政の中、水戸学を学んだ藤田東湖の思想は「尊皇攘夷」であった。
水戸学と水戸藩はこの思想の魁となったため、その行動も過激になっていく。
1855年(安政2年)江戸を大激震が襲う。安政の大地震である。
そのとき東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅いました。
東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来ましたが、母が脱出できずに閉じ込められてしまいました。
東湖は母を救出するために屋敷内に立ち戻るのです。
その戻った東湖の頭上に大きな梁が落ちてきます。東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死してしまうのです。
藤田東湖 享年50歳。
水戸藩にとってこれはとてつもない損失でした。
東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。
これを見ても、東湖の死は、その後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。
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尊王攘夷の旗




藤田東湖の生涯Price1,365 円
水戸学と明治維新Price1,785 円
幕末入門書Price1,890 円
1806年(文化3年)藤田東湖は父の水戸学者藤田幽谷の下に生まれる。
青年期に彰考館に勤め、1827年(文政10年)に家督を相続。
進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。

1829年(文政12年)水戸藩に継嗣問題が起こる。第8代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。
このとき東湖は斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。
斉昭の襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得て、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりる。
しかし、斉昭が1844年(弘化元年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚し、禄を剥奪される。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって1846年(弘化3年)に謹慎を解除されるとそれまでの責を問われ江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。
1849年(嘉永2年)徳川斉昭が藩政関与が許されると、東湖の罪も許され水戸に戻ることが出来た。
そして3年後の1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、時代が激震をすると、幕府は徳川斉昭が海防参与として幕政に参画させ、それに伴い藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。
1854年(安政元年)には側用人に復帰している。
徳川斉昭には側近・戸田忠太夫がおり、東湖と共に、 「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。
各藩の志ある若者達は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けていったのです。
また東湖は他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと言われるほどの力をもっていた。
ペリーの来航以後彷徨う幕政の中、水戸学を学んだ藤田東湖の思想は「尊皇攘夷」であった。
水戸学と水戸藩はこの思想の魁となったため、その行動も過激になっていく。
1855年(安政2年)江戸を大激震が襲う。安政の大地震である。
そのとき東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅いました。
東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来ましたが、母が脱出できずに閉じ込められてしまいました。
東湖は母を救出するために屋敷内に立ち戻るのです。
その戻った東湖の頭上に大きな梁が落ちてきます。東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死してしまうのです。
藤田東湖 享年50歳。
水戸藩にとってこれはとてつもない損失でした。
東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。
これを見ても、東湖の死は、その後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。
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